私は教育者、そして子育てをしている親としても読みました。この本で観察されている学生たちの状況は自分が勤め先の大学などで目にしているものと同じで、すごく納得しました。親として注目したのは、そういうメンタリティーに子どもはいつからなるのかという点です。それは小学校の3、4年生ぐらいだと。この話には心して子どもを育てなければいけないと考えさせられました。

 幼稚園などに行くと、どの子もひたすら元気で素晴らしいですよね。本当にいいなと思います。けれどもこれが十数年たって、大学に来ると全く元気のない子になっているわけです。子どもたちがいつからそうなるのか、ずうっと疑問でした。金間さんによると、そのターニングポイントは小学校の中学年なのです。

 具体的にどんな変化が表れるのか。たとえば、小学校の先生が授業で何か質問をする、「わかる人は手を挙げて」と。1年生、2年生だと「はい、はい」とみんな元気に手を挙げます。それが5年生くらいになるとぱったりとやみます。要するに、他者の視線を過剰に意識し始めるのが3年生、4年生の頃というわけです。それ以降、子どもたちはどんどん元気がなくなっていく。そんなふうにこの本には書いています。

内田:他者の視線を気にするのは成熟の過程では当然起きることですけどね。

白井:簡単に言えば、その意識の仕方が子どもの中ですごく過剰になっているということでしょうし、他者の視線が自分にぶつかって来ることを通じて主体形成するということができなくなってきているのだと思います。

内田:今の日本の学校教育では、査定や評価にリソースを費やし過ぎていると思います。僕の記憶する限り、90年代のバブル崩壊までは、評価とか査定とか格付けとかいうことが学校教育の中で話題になることはほとんどなかったです。バブル以前の日本企業は、ふつうは年功序列、終身雇用制でした。つまり人事考課しない。何年かある職位にいたら、みんな揃って係長になり、課長になる。部長以上になれる社員は選別されたけれど、課長まではほぼ全員がなれた。だから、職位ではなく、仕事の内容で能力の差をつけた。同じ課長だけれど、どれくらい重要な仕事を任されているか、部下が何人いるかが違う。でも、給料は一緒。90年代まではだいたいどこの組織もそうでした。人事考課に手間暇をかけるということをしなかった。

 これが高度成長期の人事でした。この時期はどの組織でも、身の程知らずに、分際をわきまえずに新しい事業に取り組む社員が企業を牽引していった。こういう人たちは別に出世がしたくて、給料を上げたくて仕事をしていたわけじゃなくて、仕事が面白くて仕方がないから仕事をしていた。だから、組織も査定とか評価ということは二の次で、「とにかく面白いことをしたい」という社員にフリーハンドを与え、予算枠を与えて、好きな仕事をさせた。