東京証券取引所による資本コストと株価を意識した経営の要請を受け、自社の「安すぎる株価」問題に多くの企業が直面している。投資家との間で、企業価値に対する認識はなぜ乖離してしまうのか。ESG情報開示の第一人者である北川哲雄氏は、トップマネジメントによる投資家との意義ある対話と「エンゲージメント」こそが、溝を埋めるカギになると指摘する。

巷にあふれる
論理性を欠いた「湿った開示」

編集部(以下青文字):東証からの要請を受け、自社株買いなどの株主還元によってPBRを改善する動きが見られます。そこには現状の株価に満足していない、過小評価されているのではないかというメッセージも込められているはずです。しかし、厳しく言えば、事業を続けるよりも解散したほうがいいと市場が評価しているからこそ、株価が1株当たりの純資産を大きく下回っているわけです。収益力を向上させ、投資家からの信頼を高めることで株価上昇につなげるのが本筋ではないでしょうか。

非財務情報開示は、<br />なぜトップマネジメントの仕事なのか青山学院大学 名誉教授|東京都立大学 特任教授
北川哲雄
TETSUO KITAGAWA
青山学院大学名誉教授、東京都立大学特任教授。野村総合研究所、モルガン銀行東京支店(現J.P.モルガン・アセット・マネジメント)等でアナリスト、リサーチャーとして活躍後、2005年より青山学院大学大学院国際マネジメント研究科教授。2019年より現職。経済産業省「非財務情報の開示指針研究会」座長、金融庁「ESG評価・データ提供機関に係る専門分科会」座長などを歴任。近編著に、『サステナビリティ情報開示ハンドブック』(日本経済新聞出版、2023年)、『ESGカオスを超えて』(中央経済社、2022年)などがある。

北川(以下略):日々の変動はあるとはいえ、株価はその企業が将来稼ぐであろうキャッシュフローの現在価値を世界中の投資家が冷厳に評価したもので、言ってみれば一つのコンセンサスです。株価が低いということは稼ぐ力がないと見なされている証で、PBRが大きく1倍割れしている企業は、まずはこの事実を真摯に受け止める必要があるでしょう。

 仮に過小評価されているのであれば、情報の出し方、開示に問題があるのかもしれません。非財務情報に対する関心の高まりに伴い統合報告書を発行する企業は増えましたが、読み手の心の琴線に触れるものがどれだけあるかといえばまだまだでしょう。機関投資家も受託者責任があるので真剣です。特に独自の調査や分析に基づいて企業を評価・選別するアクティブ投資家の場合、確信の持てない会社に投資することはけっしてありません。

 ただし、企業だけでなく、投資家サイドの問題もあります。アクティブ投資家であれば、財務データはもちろん、7年先、10年先の未来を見通すための非財務情報も投資判断には欠かせません。過去の結果である財務データを見るだけでは、市場全体を上回るリターンは得られないからです。そうした投資家はいまのようにESGが盛んにいわれるはるか以前から、将来の環境規制に対する対応も、ガバナンスも、人権も、また人的資本政策なども、すべて織り込んでいたわけです。

 しかし、現在の市場の中心は、市場全体に投資して日経平均株価や東証株価指数(TOPIX)などの指標との連動を目指すパッシブ投資家です。こちらは市場全体に投資するので、個別企業のサステナビリティやESGの活動を積極的に分析する動機が乏しい。高いレベルで非財務情報の開示に取り組んでいる企業ほど、こうした状況に違和感を覚えている可能性があります。

 それでも外国人投資家を中心にインテリジェンスのあるアクティブ投資家は一定数存在しますし、TOPIXの中でも彼らを主なターゲットに見据えてハイレベルな非財務情報開示を行っている企業が20~30社は存在します。その一方で、本来の趣旨を理解しないまま、金融庁や東証の要請だから、他社もやっているからと、受け身の姿勢に終始するところも少なくありません。自分たちの言葉で価値創造プロセスについて語れる企業と、そうでない企業の二極化が進んでいるのが現在の状況です。

「その他大勢」の非財務情報開示の課題はどこにありますか。

 統合報告書でいえば、思い入れが強く、そのためにかえってメッセージが曖昧になっている「湿った開示」が多すぎるというのが私の見解です。ビジュアル面で工夫するのもいいし、CEOの情熱的なメッセージを載せるのもいいでしょう。ただし、それが絵に描いた餅に見えるようでは駄目で、数字の裏付けや、なるほどこういうことならたしかに価値創造につながるはずだという納得感がなければ、投資家の心は動かせません。

 たとえばガバナンスに関して、「取締役会では自由闊達な議論がうんぬん」といった記述がよく見られますが、湿った開示の典型例といえるでしょう。読み手が関心があるのは、取締役ならば取締役の具体的な活動です。執行サイドからどのような情報を受け取り、それに対して取締役がどんな意見を述べ、その結果何が変わったのかといった情報を求めています。こうした具体的な記述が乏しく、一生懸命やっていますとか頑張りますなどと言われても、投資家はどう受け止めていいのかわかりません。

 マテリアリティを特定するプロセスが明確でなかったり、管理するKPIもないミニマムな和製統合報告書から、ターゲットと目的を明確にしたシン・統合報告書に転換するためには、自社に対する冷静な分析に基づく、論理的かつ確実性を備えた「乾いた開示」にしていく必要があります。乾いたといっても、何も無味乾燥がよいのではなく、経営者のパッションが感じられたり、読み手の感情や想像力が揺さぶられるようなアピールも必要でしょう。しかし、そこに根拠がなければ意味がありません。アリストテレスに倣えば、人を説得するにはロゴス(論理)、エトス(倫理)、パトス(情緒)の3つが欠かせませんが、和製統合報告書にはロゴスが致命的に不足しています。