「羽生結弦」は
至高のアイドル

 羽生結弦はアイドルである。それも、高純度の特別なアイドルである。羽生氏は、まずこの事実認識を持つべきだったのではないだろうか。

 理由は、そうしないと各種のリスクに対する対応が不十分になって危ないからだ。

 わが国には、おびただしい数のアイドル論考があり、アイドルの在り方が時代によって変化しているようでもあるが、最大公約数的に以下のようなことがいえるのではないか。

 まず、対象は歌手・俳優・選手などとして未熟なうちから注目されることが大きな特徴だ。ファンは対象の成長を願い、大いに感情移入しつつ応援する。この過程で対象は個々のファンにとって精神的に特別な存在になり、例えば自分が庇護しなければならない相手としてリアルな想像が投影される。

 近年では陰にあっても応援が献身的であることに重きを置いた「推し」という概念が力を増しているようだ。

 こうしたアイドル像に対して、羽生結弦は完璧な存在だった。ジュニアの大会を圧勝して、シニアの大会にチャレンジし始めた「ユズくん」は、難度の高いジャンプを軽々と飛ぶ天才スケーターだったが、華はあってもいかにも華奢(きゃしゃ)で頼りなく守り育ててあげたいような対象だった。

 しかも、フィギュアスケートという競技種目の特殊性があった。ジャンプをして着氷する度にハラハラさせるのだ。筆者のような競技に詳しくない見物人がテレビ中継で羽生選手を見ていても呼吸が浅くなってどきどきしたのだから、羽生選手のファンにとっての刺激は一体どれほどだったのか。

 さらには、採点のゆがみやルールの変更、ライバルの台頭など、数々の試練が降りかかった。しかし、羽生選手は五輪2連覇といった世界最高水準の答えを出して期待に応えた。

 また、競技キャリアの後半には、体質が大人になって必ずしもジャンプを飛ぶには有利でなくなるのだが、長年のファンは一回一回のジャンプに力一杯感情移入したはずだ。

 人生が羽生結弦と一体化したような感覚のファンが多数いておかしくない。「羽生結弦」は、おそらく芸能人の誰と比較しても圧勝する理想的な至高のアイドルなのだと理解することが現実的なのではないか。