パチンコ、麻雀、女、酒、タバコを欠かさず、ほぼニート状態の父親。それに母親が共依存するという複雑な家庭環境に育った。14歳のとき、父親が自己破産して失踪。貧しい生活を支えた母親は病に倒れ、半身不随に。苦境のなか、独学で大学に合格、奨学金を得た。そして、兄・成田悠輔がくれた本をきっかけに「起業」を志した。話題の書『14歳のときに教えてほしかった 起業家という冒険』(ダイヤモンド社)の著者・成田修造は、体当たりで起業家の道を歩むようになる。本書は起業を通じた人生の指南書で、何歳からでも組織に頼らず、副業・独立・起業でビジネスを展開するときに必須の内容。これからは会社員であっても、自分で事業をつくれると強い。その思考法とノウハウを全公開する。
※本稿は、『14歳のときに教えてほしかった 起業家という冒険(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。
22歳で役員になり
24歳で上場させる
自分はパテントビューロに入社してから、「22歳で役員になり、24歳で上場させる」という目標を立てました。
それくらい大きなサービスや事業を急ピッチでつくり、自分もその中心にいられるように成長したいと思ったのです。
パテントビューロで仕事にとり組んだ日々は、とても刺激的なものでした。
“学生社社員”として
仕事を多岐に携わる
学校の勉強と違ってやることが決まっておらず、日々さまざまな課題にアタックする。その結果として会社と自分の成長が感じられるのは、学校の勉強では得られない喜びでした。
僕が任された仕事は、マーケティングやセールス活動、上場企業との業務提携など多岐にわたりました。
ソフトウェア開発、デザイン、経理などのバックオフィス業務を除き、すべての仕事に関わっていて、社長と濃密に仕事をさせていただきました。
大企業相手に
仕事をする大学生
営業の仕事では、自分たちで商材を作って、ゼロから提案することの醍醐味を知りました。
ウェブマーケティングに携わったときは、グーグルやヤフーに広告を出して、ビジネスのターゲットである弁理士や企業の知財部の人材をいかに自社サイトに集めるかに知恵を絞りました。
大手企業を相手に仕事ができたことも、大学生としては得がたい経験でした。
「24歳で上場」
という目標と挫折
大手の人材企業とジャンル特化型の人材事業を立ち上げる提携業務をしたり、人材事業を展開している企業向けに顧客情報を管理できるツール、今でいうクラウド経由でソフトを提供するSaaS(ソフトウェア・アズ・ア・サービス)を作ったりしました。
このように幅広い事業に積極的に携わりながら、短期間で知見を広めることができたのです。しかし、結果として僕はパテントビューロを2年ほどで去ることになります。
その最大の理由は、会社の成長が僕の思い描いた形にならなかったことにあります。
短期間の熱狂
から学んだこと
2008年のリーマンショックの直後だったこともあり、会社の事業は壁にぶつかっていましたし、当時は資金調達の環境もあまり充実しておらず、大きなプロダクトを開発するにも資金が得られない、エンジニアが足りない、そんな状態でした。
そして、僕が目標にしていた4年以内の上場を実現させるのは難しいと悟ったのです。
あの2年間、僕としてはできる限りのことをやり、ときには迷惑をかけつつも、ある程度の結果は残せたと自負しています。
理屈どおりにはいかない
ビジネスの現実
ただし、スタートアップを短期間で上場まで急成長させるというのは、本当に大変なことだと思いました。興味深いコンセプトやビジョンだけでは足りないし、優れたプロダクトを作ればすべてがうまくいくわけでもない。
オペレーションや組織づくり、資金調達、マネタイズ(収益化)など、ビジネスにはさまざまな要素が複雑に絡んでいて、"時の運"も影響します。
そうした学びを得ることができたのは、間違いなく僕の財産になりましたし、パテントビューロに誘ってくださった社長をはじめ、一緒に仕事をした皆さんには今も感謝しています。
※本稿は、『14歳のときに教えてほしかった 起業家という冒険』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。