人を動かすには「論理的な正しさ」も「情熱的な訴え」も必要ない。「認知バイアス」によって、私たちは気がつかないうちに、誰かに動かされている。人間が生得的に持っているこの心理的な傾向をビジネスや公共分野に活かそうとする動きはますます活発になっている。認知バイアスを利用した「行動経済学」について理解を深めることは、様々なリスクから自分の身を守るためにも、うまく相手を動かして目的を達成するためにも、非常に重要だ。本連載では、『勘違いが人を動かす──教養としての行動経済学入門』から私たちの生活を取り囲む様々な認知バイアスについて豊富な事例と科学的知見を紹介しながら、有益なアドバイスを提供する。
日常とは異なる環境が感動を生む
魅力的になるためには、まずは相手の注目を引くことだ。
注目を引くという単純な事実が、対象に対して人が抱く感情に影響を与えるからだ。これをフォーカシング効果という。
注目を引かれると、私たちは無意識のうちに、「これが目に留まったということは、私の賢い脳がまさにこのモノや人を選んだということだ。きっと何か特別な価値があるに違いない」と思い込む(これは、誰もが持つ自信過剰の表れでもある)。
このことは“注目モード”に入りやすい環境だと、はっきりと体験できる。
美術館にいるときのことを想像してみよう。厳かな静けさに、わずかな物音も反響する空間。自然と歩みはゆっくりになり、誰かと話すときも声が小さくなる。さらに美術館の白い壁が美術品を際立たせている。
扉を開けて一室に入ってみると、薄暗い屋内に一筋のスポットライトが見える。その光を追った先に、1枚のゴミ袋が置かれているのが目に入る。
そうか、ゴミ袋が美術品として展示されているのか。きっと、前衛的なインスタレーションなんだ─。じっと見ていると、この日用品に独特な質感があることに気づく。なめらかだが、同時にざらざらしている。色は黒ではなく、濃いグレーで、思っていたより美しい。感動的と言ってもいいくらいだ。
あなたは、日常生活に潜む、見落としがちな美に思いを馳せる。咄嗟にスマートフォンをつかむ。たった今心に浮かべたばかりの「日常に潜む美」という素晴らしい考えは、この美しいインスタレーション作品の写真とともにSNSに投稿する価値があると思ったからだ。
その瞬間、低い声がして、無情にも思考が中断される。
「お客様、何をしているんですか? ここは廃棄物処理室です。立ち入り禁止ですよ!」
フォーカシング効果は、高級レストランで1杯のワインをじっくり味わっているときにも体験できる。「何て芳醇な香り!」。私たちは、普段とは違う環境で味わうワインに、特別な視線を注ぎ、それによって特別な感覚を体験する。
大音響、大スクリーンの映画館で新作映画に夢中になっているときも同じ効果が生じる。だが、同じ映画を家でソファに座り、スマートフォンを片手にパートナーとしゃべりながら観ると、映画館と同じような感動は味わえないかもしれない。
つまり、注目は経験を変えるのだ。そして、注目は私たちの行動や選択、買うものにも影響を与える。
目を奪われたものは、他のものよりも興味深く、重要に思える。よく見れば見るほど、美しく思えてくる。
自社の製品やサービス、アプリ、ガジェットにユーザーの注目を集められる企業が圧倒的な収益を上げられるのも当然だ。
さらに、注目は好意に変わりやすい。だからこそ、ユーザーの注目を奪い合う争いは熾烈を極めるのだ。
(本記事は『勘違いが人を動かす──教養としての行動経済学入門』から一部を抜粋・改変したものです)