米中国交回復、ソ連と軍縮実現の陰で
生み出された周辺小国の無数の悲劇
アメリカのニクソン、フォード共和党政権のもとで、国家安全保障担当補佐官、国務長官を務めアメリカ外交に多大な影響を与えたヘンリー・キッシンジャー氏(100歳)が11月29日、コネティカット州の自宅で亡くなった。
直近でも、ロシアのウクライナ侵攻の和平策としてウクライナの領土の一部割譲を提言したり、米中対立緩和で中国の習近平国家主席と話し合ったりするなど、その言動は注目を浴びてきた。
キッシンジャー氏が振るった権勢、得た栄誉は他の歴代外交官と比較にならない。米ソ冷戦の時代、アメリカが対中接近にかじを切り、1972年のニクソン訪中の準備を整える一方で、ソ連との間でいわゆる「デタント時代」を切り開いたその功績は大きいとされる。72年5月の米ソの弾道ミサイル保有数を制限するSALT Iの締結に導き、その後の一連の米ソ軍縮条約に道筋をつけた。75年には東西対話を促進する全欧安全保障協力会議の「ヘルシンキ合意」の成立に貢献した。
しかし、こうした大国の力の均衡を最優先した彼の外交政策のコインの裏面で、周辺の小国での無数の悲劇が積み重なっていたことも見ておく必要がある。
ベトナム戦争を長引かせ、カンボジアに空爆を拡大したほか、東ティモールやバングラデシュでの大量虐殺、アフリカの内戦激化、チリの軍事クーデター、アルゼンチンの独裁体制の成立に直接関与した。300万人の死が彼の判断によってもたらされたと推計する研究者もいる。
こうしたことからキッシンジャー氏が講演などで公衆の前に姿を現した際に、しばしば市民から罵声を浴びせられることがあった。かつてコロンビア大学で教鞭(きょうべん)を執る話があったが、学生の反対で実現しなかったこともある。
「戦争犯罪」――これが彼に終生まとわりついた汚名だったことも忘れるべきではない。