自民党内の「不協和音」は、岸田政権を退陣に追い込むか政治資金規正法改正に関する実務者協議に臨む自民党の鈴木馨祐(右)と公明党の中野洋昌。自民党と公明党による連立政権の足元は今、大きく揺らいでいる Photo:JIJI

 四半世紀にわたって日本政治の主軸となってきた自民党と公明党による連立政権の足元が大きく揺らいでいる。自公連立政権の発足は1999年。当時の首相、小渕恵三は連立政権樹立に当たって何度も繰り返した。

「連立の基礎は互いの信頼関係にある」

 小渕は居を構えていた東京都北区など東京12区を公明党候補に明け渡した。この12区で当選を重ねたのが、後に公明党代表に就任した太田昭宏。小選挙区の明け渡しに自民党内には強い異論も存在したが、官房長官の野中広務をはじめ政権の重鎮たちは、衆参ねじれ国会という厳しい状況を乗り越えるためにあえて決断した。

 当時の自民党国対委員長、古賀誠は「歯を食いしばって我慢を重ねてきた」と振り返る。やがて両党の選挙協力の推進が自公体制を安定化させたが、理屈だけで連立政権が継続できたわけではない。7年8カ月にわたる第2次安倍政権は安倍晋三と太田というトップ同士の強い信頼関係が多くの難題をクリアする原動力になった。こうした個人的な信頼関係に加えて自公関係の円滑な運営を可能にしたのが、自公の最高幹部同士による協議機関の常設化だった。

 この推進役が2016年8月の人事で幹事長に就任した二階俊博。二階は国対委員長の森山裕(現自民党総務会長)、幹事長代理の林幹雄を従えて国会開会中には毎週水曜日に必ず、公明党の幹事長・国対委員長と顔を合わせた。いわゆる「2幹2国」である。

「何もなくても会うことが大事だ。むしろ何もないときほど会うことに意味がある」