シャープのテレビ液晶撤退で惜しまれる、経営復活の起点になれたはずの堺工場が陥った罠シャープの象徴だった堺工場は、なぜ「お荷物」となってしまったのか Photo:JIJI

シャープ液晶パネル生産終了
知られざる液晶開発の長い歴史

 シャープが堺の液晶パネル生産を終了することを発表した。一部には、シャープがテレビ事業から撤退するといった誤解があるようだが、これは間違いであり、テレビの部品としての液晶パネルの自社開発を止めるという話である。

 テレビを作るということと表示デバイスを作るということはイコールではない。液晶テレビ以前のブラウン管テレビにおいてもシャープは自社でブラウン管は製造せずに、他社のブラウン管を調達してテレビを作っていた。シャープは国産テレビ第1号を発売したメーカーでもある。

 そもそもシャープが液晶パネル開発に踏み切ったきっかけにも、この同社がブラウン管を他社から調達していたという事実が関係している。シャープは国産テレビ第1号メーカーであったのにもかかわらず、ブラウン管テレビの成長期に自社のブラウン管の製造設備の投資を行うことができずに、次第にブラウン管がコモディティ化(日用品化)してくると、今さらブラウン管を自社生産するよりも他社から調達する方が安いという状況になってしまっていた。

 そこで、1970年の大阪万博のシャープパビリオンの出展を急遽中止して、「ブラウン管の次の表示デバイスは自社開発する」という目標の下、奈良県天理市に液晶の研究所を設置して、液晶開発を開始することになった。これが液晶のシャープの始まりであった。