電子機器の使い続けを
一貫支援する京西テクノス

 京西テクノス(東京都多摩市)は、さまざまなメーカーの計測器・医療機器・情報通信機器など電子機器の点検、修理・メンテナンス、ネットワーク設計・構築・運用管理などをワンストップで手掛ける「トータルマルチベンダーサービス」という独自のビジネスモデルで、成長を続ける企業である。

 年中無休で稼働するサポートセンターでは、現場経験の豊富なエンジニアが、トラブルの受付からテクニカルサポートまでをカバーし、リモートによる監視も24時間対応する。修理や部品交換などが必要な場合は、北海道から沖縄まで全国14の拠点から、トラブルが起こっている医療機関や工場などの現場へ専門エンジニアを派遣する。機器そのものを預かって修理するリペアサービスも、国内外のさまざまなメーカー製品に対応している。

 さらに、メーカーサポートが終了した後も「機器を使い続けたい」というユーザーのニーズに応えるのが、予防保全や修理、再設計によって製品寿命を延命するサービス「KLES」(Kyosai Life Extension Service:クレス)である。大規模な工場や発電プラントなどでは、計測器一つが修理できないだけでシステム全体を延命できなくなり、リプレースに多大なコストが発生することがある。KLESはそれを防ぎ、資源の廃棄も抑える循環経済型サービスだ。

「使い続け」モデルへのビジネストランジション戦略京西テクノス代表取締役社長の臼井努氏(左)と 専務取締役の大嶽充弘氏。

 ユーザー企業は使用している機器のメーカーを問わず、ワンストップで保守・メンテナンスサービスを受けられる。メーカーは自社でサポート体制をつくるよりトータルコストを下げられるし、メーカー保証切れの製品もユーザーに安心して使ってもらえる。京西テクノスのメンテナンス事業は独自のビジネスモデルで成長し、〝使い続け〟による循環経済への移行に貢献できる。「まさに三方よしで、事業を大きくしてきました」と、京西テクノス社長の臼井努氏は胸を張る。

 関西国際空港の保税工場(外国貨物について、関税を課されずに製造・加工できる)では、海外工場で使用されている電子機器の修理・校正も行っている。メーカーにしてみると、世界各地に同一水準のサポート体制を構築することは難しく、海外ユーザーが使用する機器が故障した場合、現地で修理できなければいったん本国に輸入して修理し、再輸出しなければならない。それでは時間がかかるし、関税も生じる。

 京西テクノスでは、空輸された機器をすぐに保税工場内で修理し、送り返す。ここでも、製造元を問わず修理・校正を受け付けており、日系メーカーの海外工場から重宝されている。

 2016年度に46億円だった同社の売上高は、23年度に144億円強へと約3倍に拡大した。循環経済という時代の流れの先頭を行く京西テクノスだが、その出発点は臼井氏が二十数年前に抱いた強い危機感にあった。

ターニングポイントとなった
運命の電話

 臼井氏は大学卒業後、大手の計測・制御機器メーカーを経て、祖父が経営する京西電機に入社した。京西電機は、大手メーカーの計測器や情報通信機器などを受託製造するものづくり企業。臼井氏が入社した1990年代後半は、バブル経済崩壊の影響で国内工場の海外移転が加速し、受託製造各社は中国などとの厳しいコスト競争にさらされていた。臼井氏は「このまま下請けメーカーとしてやっていけるだろうか。国内でどうやって付加価値を維持していけばいいのか」と、不安を抱えていた。

 ちょうどその頃、京西電機の工場で基板上に電子部品を実装する生産設備が故障した。夜中に電話で報告を受けた臼井氏は、すぐに設備メーカーに連絡を入れ、修理を依頼した。24時間稼働する工場で、その設備が止まると大きな打撃を受けるからだ。

 メーカーのサポート要員は工場に駆け付けて修理してくれたが、その修理代金は技術料と部品代などを合わせて数十万円。一方、その設備を使って電子部品1個を搭載してもらえる代金は1円にも満たなかった。「サービスはスピードと技術力があれば、付加価値を稼げる。生産委託先が中国に移ることはあっても、修理を中国に出すことはないだろう。メンテナンスに舵を切ったほうが、国内で生き残れるのではないか」。そう考えた臼井氏は、入社3年目でメンテナンスサービスの社内プロジェクトを立ち上げ、2002年に京西クリエイト(現京西テクノス)を設立、32歳で社長に就任した(現在、京西テクノスと京西電機に資本関係はない)。

 技術者を採用するとともに、臼井氏みずから顧客開拓に駆け回り、メーカーを問わず修理を引き受けた。「いま振り返ると、海外への生産シフトが進んでいたために、有能な技術者を比較的採用しやすく、当社にとっては追い風でした」(臼井氏)

 京西テクノスの発展を語るうえで欠かせない、2本の〝運命の電話〟がある。1本目は、アメリカの大手医療機器メーカーからの電話だった。「脳波計や心電計の修理サポートを手伝ってほしい」という内容で、二つ返事で引き受けて社員を派遣した。

 ところがその後、当の医療機器メーカーが修理サポート事業を丸ごと外部委託することになった。京西テクノスとしてはメンテナンス契約を打ち切られる危機だったが、臼井氏は意を決して「メンテナンス部門を、社員を含めて丸ごと引き取らせてほしい」と提案。粘り強い交渉の結果、それまでの実績などが認められ、メンテナンス部門を引き取ることができた。この時に移籍した社員が、京西テクノスで大いに活躍した。危機をチャンスに変える決断が、発展の礎となったのである。