10年前、関口マネージャーに「お前のやりたい歌や芝居は、ここで天下を取ればできる」と説得されて飛び込んだバラエティの世界でしたが、この頃には、その現場で必要とされることに、生きがいを感じていました。
僕にとって「14本」という数字は、ただの仕事の本数ではなく、1つ1つの現場で、ゼロから信頼を積み上げたことを示す、確かな証でもありました。
「勘違いしてる」の声を背に
不退転の決意で進んだ道
デビュー直後に、日本テレビのドラマ『ハーフポテトな俺たち』(1985年)に主演して以来、「いつかまた主演ドラマをやりたい」という思いを封印して駆け抜けた10年間。もう27歳、そろそろ次のステージに挑戦したい。でも、スタッフと築いた信頼を裏切るわけにはいかない……。
「中山、やりたいだろ?」。関口さんは笑顔で問いかけてきました。この人には、僕の心の底の、さらに奥まで見えているのだろう……。
僕が反射的に「やります!やりたいです!」と答えると、関口さんは「わかった。謝ってくるよ」と言って、各局へ、レギュラー降板の許しを請う謝罪行脚に向かいました。その節は、多くのスタッフの皆さんに大変ご迷惑をおかけしました。
「ドラマやるからバラエティを降りるって、勘違いしてるんじゃない?」
そんな声もあったと聞いたのは、ずいぶん後のことです。関口さんは何も言わずに全力で10年前の約束を果たしてくれました。ならば僕は、必ずこの挑戦を成功させなければならない。
まさに不退転の覚悟で挑む『静かなるドン』。その制作発表会見には、青と赤のレジメンタルのネクタイを締めて臨みました。石原裕次郎さんの形見のネクタイです。
昭和の大スターに誓った
ドラマ主演への意気込み
僕はかつて、石原裕次郎だったことがあります。誤植ではなく「石原裕次郎だった」のです。
ドラマ『静かなるドン』の収録スタジオは“昭和の大スター”石原裕次郎を育て、数多の名作を生んだ、東京・調布の日活撮影所でした。
20歳の頃、偶然、若き日の裕次郎さんの作品に触れ、そのカッコよさに一目惚れした僕は、映画、歌、ドラマなど裕次郎さんのあらゆる作品を、それこそ、穴の開く程観てきた大のマニア……いや“裕次郎かぶれ”と言うべきか、それほどスター・石原裕次郎を愛していました。