重職者たちも身を投じた
敵に突っ込み時間を稼ぐ戦法

 午後2時過ぎ。味方は惨敗。周囲はすべて敵。10月の秋風が、島津の陣に向けて倒れた西軍兵士たちの血の臭いを運んでくる。

 このとき島津陣営では「戦って死ぬべし」という意見もあれば「退いて他日を期すべし」と言う者もあった。退くといっても、周りは敵しかいない。つまり絶望的な敗北の予感しかなかった。島津義弘ですら一度は自決を考えるが、やがて家臣の声にも励まされ、ついに敵前・正面突破の撤退戦が始まる。
 
 ここで、島津義弘は東を目指す。

 東は、まさに敵陣営のど真ん中を意味する。おそらく味方のいた大垣城を目指したと思われるが、「東は敵だらけです」という家臣に「押し通れ。無理なら死ぬまでだ」と問答があるほどの状態であった。

 突破しただけではない。次から次に追いすがる敵を牽制する。一人一人が座り込んで鉄砲を撃ち、やりを持って敵に突っ込み時間を稼ぐ。「捨て奸(がまり)」はまさに捨て身の、味方を逃がす戦術であった。

 退陣中多くの戦死者を出すが、義弘のおい・島津豊久や家老職であった長寿院盛淳など、重職者たちも壮烈な最期を遂げた。

 ただ特筆すべきは、徳川方の被害である。死に物狂いの島津勢ゆえに、追撃側にも甚大な被害が出た。例えば徳川家重臣の井伊直政に重傷を負わせる殊勲も立てたのである(直政はこのときの傷がもとでのちに死去)。

 島津義弘は敵中突破に成功すると鈴鹿山脈沿いに信楽、そして大坂に向かい、海路瀬戸内海に出る。だが、ここで黒田水軍と海戦になって2隻が沈められるなど困難を重ね、島津領にたどり着いたのは10月3日。撤退開始から実に19日間の退却行であった。