The Legend Interview不朽
 安藤太郎(1910年1月3日~2010年5月9日)は、住友銀行(現三井住友フィナンシャルグループ)の副頭取から1974年に住友不動産社長に転身した。住友銀行時代は、頭取を19年務めて「住銀の法皇」と称された堀田庄三に重用されたが、堀田の引退を受け、次期頭取レースに敗れた結果だったという。しかし、三井不動産、三菱地所の財閥系不動産デベロッパーの中で最後発だった住友不動産を大きく飛躍させ、「中興の祖」とまで呼ばれる存在となった。

 安藤の社長就任当時、石油危機によって高度経済成長が幕を閉じ、高騰を続けていた全国の地価が暴落して不動産業界は苦境に陥っていた。大阪を中心に貸しビル業やマンション販売を手掛けていた住友不動産も赤字に転落。安藤は、大阪での大型開発案件から撤退を決断し、東京におけるオフィス賃貸ビル事業への集中投資にかじを切った。

 同業他社がこぞって郊外の土地を買い、宅地造成にいそしむ中、都心の事業に集中した住友不動産は大成功を収める。「週刊ダイヤモンド」86年5月31日号に、東京のオフィス需要の急増を予測し、賃貸事業で高収益を上げるビジネスモデルを確立した安藤のインタビューが掲載されている。記事中で安藤が次なる期待を寄せているのは、都心3区(千代田区、港区、中央区)で進むであろう国際金融都市化である。

 実際、80年代後半のバブル期、世界中の金融機関が東京に進出してきて都心のオフィス需要が急拡大するという期待が確かにあった。都心の地価高騰を引き起こしたシナリオの一つでもある。もっとも、86年時点では都心の地価高騰はすでに始まっていたが、安藤は「いまの地価はうそっぱちですよ、思惑だよ。投機が3分の2ぐらいですから、実需は半分以下と思ったらいいです」と冷静な見方をしている。しかし、結果的に住友不動産もバブル期には他社の例に漏れず都心部で積極的に土地取得を進めた。その後のバブル崩壊で金融センター化は思惑通りには進まず、高値つかみした土地は大きな含み損を抱えることとなる。

 安藤は85年から94年にかけて会長となったが、33年間代表権を持ち、2008年に98歳で相談役に退くまで取締役を務めた。その頃はすでに業績は回復し08年3月期まで11期連続で増収増益を達成していたが、その間に400億円を超える特別損失を計上したのは11期中9期に及んでいる。バブルの処理には長い時間がかかった。(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

山を買って宅地造成より
国会や霞が関に近い所

――1978年ごろ東京が国際金融センターになるだろうという判断で、都心の土地の買収を始めたそうですが、どういうことから発想が生まれたのですか。

週刊ダイヤモンド1986年5月31日号1986年5月31日号より

 78年は、赤字公債を出して景気が非常に良くなった。石油ショックが73~74年で、すごく景気が悪くなった。それで景気振興のために福田(赳夫)内閣が初めて赤字公債を出したんです。それまで建設公債は発行したけれども、赤字公債は発行しなかった。それで景気がウワーッと良くなった。だからマンションなんかも、造れば売れたわけだ。

 それで土地がまた上がるだろうというので、同業者はみんな埼玉県や千葉県の山を買った。ブルドーザーを入れて宅地造成して、分譲住宅を造った。庭付き一戸建てで2000万円ぐらいのものですよ。それには土地がなくてはいかんから、もと地を買う。

 もと地というと、山だったり平野だったり、ゴルフ場なんかには非常にいい所ね。駅にわりに近い所を100万坪とか50万坪、みんな買ったんです。

 わが社は当時はまだ赤字会社だから、私もそれを考えたんだけれども、ああいう所を買ったって人口はあまり増えない、世帯数も増えない。日本列島改造論の昭和40年代のように土地が高くなるなんていうことはない。実需はそんなにないんだから。

 うちにもいろいろ20万坪、30万坪って、そういうのを売りに来たよ。うちの連中も買おう買おうと言うんだ。僕も金がうんとあったら買ったろうね。だけど当時、会社の業績が悪いから、住友銀行ですら貸してくれないんだよ、あんまり。

 それで、なけなしの金をどうするかということなんだから、そんな所よりも、私は国会や霞が関に近い所がいいと思ったんです。

――なぜ、永田町や霞が関の近くなんですか。