江頭匡一
ロイヤル創業者
 ロイヤルホールディングスの創業者である江頭匡一(1923年3月25日~2005年4月13日)は、自身について「食べ物屋」という表現を好んで用いた。戦後、22歳で福岡の米軍基地でコックの見習となったのが、食べ物屋としてのスタートだった。その後、米軍基地の御用商人として基地内でパンやケーキを販売したり、福岡空港の国内線運行開始に合わせて機内食と空港内食堂への納入を開始した。

 そして1953年、福岡の中洲に本格フランス料理レストラン「ロイヤル中洲本店」を開業すると、外食業態でのさまざまな挑戦が始まる。「ロイヤルは食品企業である」との基本理念を掲げ、日本の飲食業を一大産業にするという目標にまい進した。その象徴が、福岡市内に建設したセントラルキッチン(集中調理工場)だ。一括調理した料理を冷凍して各店舗に配送、コックが店の厨房で解凍・仕上げ調理することで品質を画一化する手法を導入した。店舗展開にもフランチャイズ制を活用し、ファミリーレストランチェーンという業態を確立させ、日本の外食産業の発展をリードしたのである。

 一方、創業以来1日10食もの試食を続けてきたせいで内臓のあちこちを患い、都合7回の手術を経験。主治医からは「55歳まで生きられない」と告げられていたという。そのため江頭自身、55歳で社長を辞任するつもりでいたが、ちょうど55歳の78年に株式上場したため、創業者として経営を続けざるを得なくなった。そこで日本興業銀行(現みずほ銀行)から迎えた北条忠男専務を次期社長候補に据え、88年に65歳になったのを機に、北条に社長を譲って自身は会長となり、3年後には代表権も返上する。

 しかし、その後、業績が悪化。江頭は92年に経営再構築推進本部を設置して、自ら本部長に就任し、93年に社長に復帰して経営再建の陣頭指揮を執ることになった。今回のインタビューはちょうどその頃、96年1月27日号に掲載されたものだ。そしてこの後、2年で見事に業績を立て直した後、94年から再び会長に就任する。97年に会長も退いて代表権のない創業者取締役に、さらに2003年に相談役となり、05年に82歳で亡くなった。

 記事の後半では、91年から展開を始めたカリフォルニアスタイルのサラダバー&グリルレストラン「シズラー」に関する話で盛り上がっている。本家のシズラーは、「手作りと出来たてのおいしさでお客様をおもてなししたい」という思いからマニュアルがないという。お客と従業員との会話を重視した、こうしたフレンドリーな店舗運営スタイルに江頭は新しい可能性を感じていたようだ。現在、シズラーは国内に10店舗を構える。(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

「4年後にはゼロになる」と
社員に現状をそのまま伝えた

――新年の政策上のテーマは何ですか?

 景気が回復してもしなくても、全店売り上げ5%アップをテーマとし稲田直太社長に要請しています。

ロイヤル創業者・江頭匡一「ホスピタリティビジネスに満点はない。78点で日本一」1996年1月27日号

 毎月業績検討会をしているんですが、1992年ごろから瞬く間に売り上げが10%下がり、1年以内に下がり切りました。この10%が元に戻れば、うちの利益は100億円ぐらいになるんですがね(笑)。

――危機回避という点で、ロイヤルはどんなことをやったのですか。

 現状認識とリストラです。確か91年ごろに、計数管理の担当者にコンピューターで利益の数字をはじき出してもらったら、4年後にはゼロになるという結果が出たんです。この現状を社員にそのまま伝えたんです。このまま行ったら利益はゼロになるとね。

――衝撃的ですね。

 それともう一点、課長以上を対象にロイヤルの安全度を調査してみたんです。僕は当時40点程度と見ていたんですが、みんな70点とか80点とか結構良い点数を付けているんですよ。そのくせ、どこが悪いと書かせると「ロイヤルのそこが悪い、あそこが悪い」ということが幾つも出てくるんですね。それも自分のことは一切棚に上げて。

 つまり、一部上場、売り上げ905億円、店舗数多数ということに、皆が頼り、安心し切って怠けている。ですから、ロイヤルの現状をディスクロージャーしたんです。

――点数的にはどれぐらいまで回復しましたか。