1951年に追放が解かれ、東宝の社長に復帰するのだが、今回紹介するのはちょうどその頃、「ダイヤモンド」1952年1月1日号に寄せられたエッセーである。「没落する秀才型」と題された寄稿で、戦後は帝国大学(主に東京大学)出身の秀才型が凋落する新しい民主主義の時代だと述べている。
実際、戦前から戦中にかけて日本の政治や社会を主導した軍部と帝国大学卒のエリート官僚は、戦後、国民の強い批判の対象となった。敗戦による価値観の転換を象徴するのが、従来の秩序や価値観に縛られず、新しい生活様式や思想を追求する「アプレゲール=戦後派」と呼ばれる若者たちの出現だ。彼らは必ずしも共産主義、社会主義と結び付いたわけではないが、反権威的な自由や平等を求める一団であったことは間違いない。
小林も、戦前に成功した実業家であり政治家でもあり、明らかにエリート層に属する人物だが、アプレゲールに対して理解を示し、戦後の日本はエリート層主導から庶民参加型の民主主義で構築されるべきだと考えていたようだ。そして、小林自身は共産主義、社会主義には全くくみしないが、恪勤精励型の凡人が活躍する「社会主義的色彩によって晴れやかなる自由経済の新しい形態」を思い描いていた。
「昔のような利己的資本主義は影を潜めて、相互共栄の社会主義的色彩によって晴れやかなる自由経済の新しい形態が生まれるものと信じている。ここには全ての人たちが均一に働き、乏しきを憂えず均しからざるを憂うというがごとき空想的生活が退けられ、よく働く人が恵まれ、向上し、広く大きく国民大衆と共に栄えゆくために優越感に陶酔している秀才型を蹴飛ばし、人一倍働いて再建を双肩に担う戦後派の躍進する時代が存外早く来るのではないかと思うのである」
GHQの方針転換もあり、戦前のエリート層であった官僚や政治家たちの多くは再び権力の中枢に戻り、特に官僚主導の経済運営は戦後復興とその後の高度成長を支えた。東大卒の秀才型の価値が凋落したかとなると、必ずしも小林の見立ては当たらないかもしれない。しかし一方で、労働者の貢献や庶民層の消費力が経済成長を加速させたのも事実だ。また、戦後の教育改革によって初等教育から高等教育までのアクセスが庶民に広がり、これが高い技術力や労働力の質を生み出したという点では、小林の言う「人一倍働いて再建を双肩に担う戦後派の躍進する時代」は実現したといえそうだ。(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
東京帝大への復学をやめた
H君との会話
終戦後、1、2年、まだ焼け跡も片付かず、秩序は乱れ、学校も休業する、その頃郷里に辛うじて徒食していた東京帝大経済学部の2年生であったH君は、
「これから学校もぽつぽつ始まるというので友人たちから上京を促してくるのです。私もあと1カ年で卒業ですから、学校に行こうと思いますけれど、ご承知のごとく近頃の物価高では毎月5、6000円の学費が要る。兄は、もう1年だ、何とかすると言われるのですが家計の手元を知っている私としては、これ以上兄に迷惑を掛けるのは気の毒でたまらない。何とか苦学しても(その頃はまだアルバイトという時代語はなかった)東京に留学することを相談しておりますが、兄は、その前に一度先生に相談してみてはどうか、と言われるのです」
と言うのである。
私は、「もう1年学校で勉強すれば勉強したかいがあるほど、何か学問上得るところがあるか、教えられるところがあるか、その点について私には何にも分からないが、君自身が学校に行くことが必要だと信ずるならば、行くがよいだろう」
「必要というほど必要ではないのですが、学士の称号が取れるから」
「なんだ、学士という称号を取るために学校に行くと言うのか」
「学校に籍を置いて月謝を納めていれば、半分は宅にいても勉強はできるのです。卒業論文だけ書けばよいのですから」
「僕は、兄弟の事業としている君の家の商売から考えて、また君の将来からも考えて、世間に言うところの成功、その事業を大成せしむるには、学士さまにならない方が確実に成功すると思う。1年勉強して学士になったとすれば、成功するか、しないか、それは疑問だと信ずる」
「学士になってはなぜ成功しないのですか」
「学士になれば、特に帝大の学士になれば、君の気位が高くなって、この地方の人たちに尊ばれるよりも、嫌われる方が多いことになると思う。学士になったからといって、そんなことはないと君は信じているだろう。あるいはそうかもしれないが、実はそこが紙一重というところで、学士でない方が、どんなにか努力勤勉するだろう。学士でない方が人付き合いにどんなにか腰が低いだろう。これは議論ではない。世間滔々(とうとう)として見るところの事実である」
この回答によって必ずしも、H君は上京を見合わせたというのではないかもしれないが、兄の事業に一役受け持って働いている。現在はこの町の一番年若い市会議員としてかわいがられている。