京都・滋賀で病院経営と介護福祉、保育教育持病を展開する著者・矢野裕典氏。いまでこそ医療法人の理事長を務めているが、中学・高校時代には「ひきこもり」で不登校だった。何とか医学部に進学するも不登校はここでも続き、医師国家試験でも大苦戦。国家試験に合格した時には30歳代の半ばになっていた。医師から介護従事者の道を歩んだ時期もあった。日陰を歩み、遠回りの人生だった著者だからこそ、社会的な弱者の気持ちに寄り添った医療改革を、働き方改革を、街づくりに邁進できている。
そんな著者・矢野裕典氏の初めての著書『地域医療と街づくり 京都発!「日本の医療が変わる」経営哲学』をダイジェストとして再編集して紹介します。
引きこもり中学生になる
奈良にある西大和学園中学への進学は、私を取り巻く生活環境を大きく変えることになった。自宅にある京都からは通える距離ではなかったので、1年生から「青雲寮」という学校敷地内にある寮での生活が始まった。
親元を離れた初めての集団生活。不安こそあったが、数日後には慣れた。親に気を使うこともなく、毎日が文化祭のようで楽しかった。人生で初めての「自由」を手に入れた気分だった。
しかし、中学2年の秋頃から、私は「ひきこもり」になってしまう。当時はまだ「引きこもり」という言葉はなかったので「不登校」になった、というのが正しいかもしれない。きっかけは、やはり「成績が悪かった」ことだった。
猛烈なスピードで授業が行われていた。それについていくことができなかったのだ。中間テストはボロボロだった。なんで学校では成績だけで評価されてしまうのだろうか。人間性が否定されるようだった。
結果的に中学3年になると、ほぼ自宅の自分の部屋に引きこもる生活が始まったのだ。父との関係がギクシャクするようになった。父は言いたいことが山ほどあっただろうが、父に声をかけられても当時の私には何も響かなかった。
そんなとき、担任だった今村浩章先生が奈良から京都の自宅まで何度も足を運んでくれた。それでも当時は会いたくなかったので顔をあわせることはなかったが、ただ「守ってれているんだ」という安堵感はあった。
二度目の中学3年、ひきこもりの生徒会長
トンネルから脱することができたのは父と訪ねた比叡山の阿闍梨様の言葉だった。
「行きたくなかったら、行かんでよろしい」
説教をされるのかと思ったのだが、実に明快なひと言だった。「優秀な中学・高校を経て、有名大学に行く」「医者の息子として生まれた自分は、他人よりも優秀であるべきだ」と思っていた。それができない自分を忸怩たる思いで責めていた。
「自分の置かれた状況は、これ以上悪くなりようがない、どん底にいる。だったら、これ以上悪くなることはないだろう」と思ったら、もう一度学校に行ってみようという気になった。
二度目の中学3年ということもあって、自宅で授業や試験を受けることを条件で卒業を許され、西大和学園高等学校に進学できた。心機一転、新しい環境での高校生活がスタートした。中学の担任だった今村先生は、同じタイミングで高校の教頭に就任された。
私が高校2年生のとき、生徒会長に立候補した。周囲は「あのひきこもりが生徒会長に!」と驚いた。誰かに言われたわけではなく、自らの意思だった。私の内面に抱える劣等感とは別に、集団の先頭に立って組織や社会を良い方向に導くことに興味があった。
母には幼い頃から「恵まれた立場にいるのだから、人を助ける側に必ず立ちなさい」と。
誰もが認めるような成績優秀、リーダシップを発揮している生徒が選ばれる傾向にあった。しかし、この時は私が生徒会長に選ばれることになったのだ。
消去法で医学部受験を決める
楽しかった高校生活も3年生になると大学受験に向けた追い込みが始まった。中学受験で通った塾の卒業アルバムには「将来の夢は総理大臣になること」と書いてあった、小学校の頃も父の後を継いで「医者になる」という意識はなかった。どちらかといえば政治家かホテルマンが憧れだった。
だが結局、周囲の期待もあって学力がなかったものの消去法で医学部を受験することにした。そう割り切った途端、ムクムクとやる気が湧いてきた。ただし、国立大学の医学部は無理だから、狙うのは私立一択。当時の私でも合格の可能性があるのは受験科目を分析した結果、帝京大学医学部だった。そして2001年4月、無事に帝京大学医学部に入学し、京都を離れ、東京に赴いた。