暗黒の13年間
私の大学生活は、引っ越しに次ぐ引っ越しだった。帝京大学医学部は学年によってキャンパスが異なるため、京王線の明大前から高田馬場、東新宿、板橋と転々とした。6年生の医学部で1年の一般教養、2年の基礎医学は順調だったが、3年生を3回、4年生を2回、6年生に至っては5年も費やし、卒業まで13年という年月を要した。出口の見えない長いトンネルで、中学や高校時代の引きこもりとは次元の異なる「暗黒の13年間」だった。
「自分はなんて勉強ができないのだろう」同期入学の友人は、次々に進んでいく。実習では同期の足手まといになっている……。とてつもない劣等感に苛まれていた。
最も苦しかった6年生を5回も経験したものの、2014年3月、晴れてというか、やっとというか、私は帝京大学医学部を卒業した。すでに私は32歳になっていた。しかし、医師の道に進むには最難関の医師国家試験が立ちはだかっていた。当然のように2014年の国家試験は不合格。それからさらに3年私は国家試験浪人することになる。
そして2017年春、4度目の正直で、ついに医師国家試験に合格した。医学部に入学して医師免許を持つまでに、なんと17年の年月が流れ、私は35歳になっていた。医師に対する特別な執着があったわけではないが、よく投げ出さずに我慢できたものだと思う。
医師国家試験に合格した私は、研修医として帝京大学医学部付属溝口病院に入職し、実践研修が始まったのだ。内科に配属された私は、朝、回診前の患者のカルテチェックから始まった。そして担当医とともに朝の回診。午後には外来研修で、診察の手伝いをする。
最後に病院実習をしたのが大学5年生だったので、留年と国家試験浪人を経た私には8年のブランクがあった。研修医になっても、現場では自分の技術がまったく役立たないのだ。大学時代も熱心に授業を受けていたわけではない私は勘も鈍く、研修が進むにつれ足手まといになってゆく。
そして研修医になった最初の冬、決定的な出来事が起きる。久しぶりの休日、部屋でテレビを眺めていた。そのとき小児科医を取り上げたドキュメンタリーが映っていた。難病の子どもを受け入れ、1万件以上の手術を成功させてきた、と。その医師のストイックさ、医療への向かい方そのものに、私は絶句した。「これが本物の医師だ」。そう思ったとき、私を支え続けてきた心の棒がポキンと折れる音がした。自分があの小児科医師と同じ「医師」を名乗ることが許せなくなった。恥ずかしくなった。
2017年12月、私は研修中断届を提出した。事実上、「医師」としてのキャリアを終えたのだ。
介護の仕事で初めて得られた充実感
私が「医師」という肩書を捨てて選んだのは「介護」の仕事だった。幾つかの介護施設に履歴書を送り、面接までたどり着いた。だが、結果は不採用。それもそうである。「医師の免許をもっていて、なぜ介護なのか」「研修医を途中でやめたのは問題を起こしたから」と怪しまれたようだ。
入職することになったのは大阪市内の「特別養護老人ホーム四天王寺たまつくり苑」だ。ここはとても人間的で、温かい現場だった。起床とともに入所者のもとへ行き、洗顔のお手伝いをし、朝食に移動。食事を手伝い、健康チェック、服薬を手伝い、おむつを替えたり。昼食後はレクリエーションや面会の準備をする。一番重労働だったのはお風呂だった。最初の数か月で私の体重は10キロ以上落ちた。聞きしにまさる重労働だった。
だが、目の前に自分を頼りにしてくれる人間いる、些細なお手伝いでも喜んでもらえる。劣等感に苛まれてばかりの私が、初めて自分を肯定できた現場だった。
その後、2019年に父に呼び戻され洛和会ヘルスケアシステムに戻ることになる。