小説・昭和の女帝#19Illustration by MIHO YASURAOKA

【前回までのあらすじ】「政界の黒幕」と呼ばれた父・真木甚八の法事で、真木レイ子は鬼頭紘太から呼び出しを受け、浮ついた気持ちをたしなめられる。お詫びの印に「リンゴの唄」を歌わされたレイ子は、鬼頭から支配から逃れられない自分の運命を呪った。(『小説・昭和の女帝』#19)

国会の赤絨毯の上で、レイ子が加山に放った皮肉

 加山鋭達は、有楽町の映画館の席についた。コートを羽織り、帽子に眼鏡、マスクを付けている。その姿を見て、「余計に目立っていますよ」と秘書の小林亜紀がほほ笑んだ。

 亜紀は、10歳下の同郷の出で、加山の友人と東京で所帯を持ったが離婚した。加山がそれを知って、議員会館に勤める秘書として迎え入れたのだった。加山と亜紀が特別な関係になるまでに長い時間はかからなかった。

 その日はクリスマスイブだった。事務所で仕事納めをした後、その年の春にヒットした「ローマの休日」をこっそり観に来たのだ。いつか一緒に観ようと約束して、とうとう年の暮れになってしまった。

 コートのポケットの中で二人は手を結び合っていた。汗かきの加山は、ポケットの中にハンカチを入れている。手汗をかくと手を離して汗を拭き、また亜紀の手を握る。

 王女と新聞記者の恋を描いたローマの休日は、秘めた関係を続ける加山たちにおあつらえ向きの映画だった。そもそも加山は、亜紀の機嫌が悪くなるような映画は、一人で観るか、別の女性を誘うようにしていた。

 映画館を出ると、加山は亜紀をハイヤーに乗せ、自分は自由党の公用車で自宅がある飯田橋に向かった。

 商店街の馴染みの洋服店に入ると、10歳の長女のために予約しておいたドレスの出来を確認し、今日中に家に届けてくれるよう頼んだ。隣のおもちゃ屋では、3歳になる息子のためにクリスマスプレゼントを買った。息子は神楽坂の芸者だった由紀子との間に生まれたが、加山の籍に入れていた。

 本妻との間に長男がいたが、4歳で急死してしまった。気づいたときには土気色になっていて、慌てて病院に担ぎ込んだときには腹水が溜まっていた。すでに手遅れだった。医者も最後まではっきりした病名を言わない不可解な死だった。加山は、息子を政治家か地元の鉄道会社の社長にするつもりだった。跡取りを失ったショックからしばらく立ち直れなかった。

 その後、後継者を作ろうと試みたが、なかなか子ができない。年上の妻の体は出産には耐えられない気がした。それで彼は、愛人の由紀子に「男の子を産んでくれないか」と頼んだのだった。

 彼はダンプカーのおもちゃを小脇に抱えて由紀子の家に向かった。以前は、由紀子との関係を妻も容認していた。長女の七五三のお祝いでは、由紀子がいた芸者置屋が総出で加山邸に出向き、食事の支度をしたほどだった。

 しかし、由紀子が男の子を産むと、とたんに妻の態度は硬化し、家庭に冷たい空気が漂うようになった。

 ただでさえ、妻と妾の間で緊張が高まっているのだ。彼と秘書の亜紀との関係だけは知られてはいけない。秘書との特別な関係が明らかになれば、妻や由紀子との関係がこじれることは目に見えていた。

 亜紀は、おしとやかな妻や、芸者だった由紀子とは、全く違うタイプの女性だ。加山が戦時中、思いを寄せていた真木レイ子に似ていた。背が高く、グラマーで、はっきりと物を言う現代風の女性で、かつ有能だった。もし妻や由紀子が、亜紀とのことを知ったら、自分の古風な価値観を否定されたように感じ、傷つくだろう。

 その夜、加山は由紀子の家でクリスマスケーキを食べ、彼女を抱いた。

 それから自宅に帰り、深夜にまたケーキを食べた。翌朝、長女がうれしそうにドレス姿を披露するのを見ながら、彼は「今年も政界は激動だったが、何とか上手く泳ぎ切った」という感慨にふけった。

 実際、仕事は順調だった。所属する自由党は、鳩山一郎が率いる日本民主党に敗れて下野したものの、彼は36歳にして同党副幹事長に就いていた。いまは野党の中堅幹部にすぎないが、保守政党は遠からず再統合するだろう。そのとき、保守の双璧を成す政党の中枢にいることは必ず有利に働くはずだった。