佐藤中尉以下10名の隊員たちは、戦闘指揮所の前に整列して、戦隊長に到着を申告しました。

 彼らは、目達原基地で待機し、出撃命令が出たら、ただちに鹿児島県の万世基地へ飛び、そこから沖縄戦線へ出撃することになっていました。

 彼らは、トラックの荷台に乗って、基地から北西に2、3キロの東脊振村横田にある西往寺というお寺へ向かいました。

 寺に着いて記入したのでしょう、荒木幸雄はこの日から、久しぶりに修養録に記しています。

五月十七日(木曜日)
天気快晴、絶好の出発日和なり。
待ちに待って居た門出である。
一二時二〇分、約一〇カ月間御世話になりし懐かしの平壌を出発、決戦続く沖縄へ、沖縄へと前進す。必ずやる、一撃轟沈の外なし。 
一五時頃再び内地の地に着陸。殊に大刀洗時代の目達原飛行場に到着す。
老若男女の敢斗ぶりを見るとやはり日本人の尊さがうかがわれる。
銃後の期待に添わん大戦果を挙ぐ。

 第七十二振武隊の隊員たちは、出撃前の限りあるひとときを、西往寺で過ごします。

 きょうかも知れない、あすかも知れない、命令の下るときを待って――。(中略)

出撃間近のユキを語る人びと

 西往寺は、天文7年(1538)に創建され、大木城主大木家の菩提寺であった歴史と由緒のある浄土宗のお寺です。

 沖縄特攻が始まった昭和20年3月末、軍は急遽、西往寺(南達運住職)の書院の8畳と15畳の二間つづきの大座敷を特攻隊員の宿泊にあてると決め、軍直通の電話をひきました。

 特攻隊員たちが寝起きした座敷の床の間には、観音像の掛け軸がかけられていました。

 台所に電話機が置かれ、派遣された炊事担当の軍曹が、電話番をしていました。発進命令を伝える電話が、いつかかってくるか――。隊員たちはベルが鳴ると緊張したといいます。

 お寺の住職一家だけでなく、近所の婦人たちが、できるかぎりのご馳走を作って特攻隊員たちをもてなして、心をこめて接待しました。

 親身の世話をした住職の夫人、寿賀さんを、若い隊員たちは「お母さん」と呼んで慕いました。ふたりの娘、初江さん、静枝さんたちも寿賀さんを手伝いました。