私はそのときに感じた。
「だれも他人の死の重さをはかることは出来ないのだ」と。
――『人生処方詩集』
あしたに期待している
人はなぜ期待するのだろうか?
もし、誰かに期待しているとして、その期待は充たされるとおもいますか?
わたしは、期待する、という行為も一つの「充たされた状態だ」というふうに考えています。
トーマス・マンの『幻滅』に、生涯幻滅しつづけた老残の男がでてきます。かれは、火事に期待しすぎたために、ほんものの火事を見ても何の感動もできず……、海を渇望しすぎたためにほんものの海を見ても幻滅するだけなのです。(トーマス・マンの小説は、死について語った小説なので、かならずしも期待の大きい現代人を語るのにいい例ではありませんが……、しかし、現代では「期待している」人がじつにおおい)
アントニオーニの映画『夜』のなかでは、実業家と芸術家が、はげしく期待しあい、また死んでゆく人と生きのこる人がお互いに、はげしく期待しあいます。
しかし、人はなぜ期待するのだろうか?
母親は子に期待し、子が一人前になって鳥のように自分の許をとび去ってしまうと、「期待が裏切られた」といってかなしむのが慣わしになっています。
しかし、期待というのは、それ自体で1つの成熟であり、何かのための犠牲的準備期間でも、つぎの覚醒を待つ空白状態でもないのです。
「期待する」ということに期待しすぎると幻滅するものです。
そうわかっていながら、それでも歴史に、目のくらむような冒険に期待するのはおろかしいことだといわねばなりません。
わたしの期待はわたし自身がいま在る、ということです。
これは空白状態ではありません。
この実際の手ごたえが明日を期待していると感じるとき、やってくる、目のさめるような不意打以外に、何の期待があるものでしょうか。
――『家出のすすめ』