死んでみてはじめてわかること
どう生きて、死んでいくのか

 じつは
 大きな声ではいえないが
 過去の長さと
 未来の長さとは
 同じなんだ
 死んでごらん
 よくわかる

 という淵上毛銭の詩のように“死んでみる”ことも、ときには経験である。再現できない体験、負の体験も“経験”にかわりないということを理解すれば、死はトリップであり、旅である、ということがわかるだろう。

 いずれにせよ、死ぬ動機や理由は、すべて作りごとなのだ。それは偶然的なものであり、虚構なのだ。だから太宰治のように、《死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った》(葉)と、一反の着物で予定をかえたりすることもできる。

 自殺が美しいとすれば、それは虚構であり、偶然的だからである。ぎりぎり追いつめられた中小企業の経営者の倒産による自殺は、自殺のように見えるが実は“他殺”である。膨張しすぎた資本主義社会の歪みから出てくる自殺は、形のいかんを問わず他殺であるから、私の〈自殺学入門〉のカテゴリーからはみ出す。私は、自分が死に意味を与えることのできるような偶然的な自殺だけを扱ってゆき、もっとたのしみながら、自殺について語りたいと思うのだ。

――『書を捨てよ、町へ出よう』
「生が終って死が始まるのではなく、生が終れば、死も終るのだ。死はまさに、生のなかにしか存在しないのだから」――と、私は私の戯曲の主人公に語らせたことがある。

 実際、死が生のなかに見えかくれしながらつきまとう「人生の脇役」だということは、私たちのしばしば経験することである。

 私たちはつねに生死一致の瞬間を夢見、「いかに生くべきか」という問いかけと「いかに死ぬべきか」という問いかけとのあいだを、歴史が引きはなしてしまわぬことを望んでいる。

――『幸福論』