人はなぜ他人に期待するのか?→寺山修司の言葉に心がフッと軽くなった写真はイメージです Photo:PIXTA

SNSやメディアの情報に流されやすい時代。自分らしく生きているつもりが、流行りに乗っていたり、他人と変わらない慣習で生活していたりもする。そんな日常に潜む概念や死生観を綴ってきた鬼才・寺山修司の言葉から、生き方・死に方を考える。※本稿は、寺山修司『あした死ぬとしたら ― 今日なにをするか』(興陽館)の一部を抜粋・編集したものです。

あした死ぬとしたら、
今日何をするか?

 死をかかえこまない生に、どんな真剣さがあるだろう。

 明日死ぬとしたら、今日何をするか?

 その問いから出発しない限り、いかなる世界状態も生成されない。

――『さかさま世界史 英雄伝』
 これはすぐにも、あなた自身の問題なのです。あなたにしても、「見えない手」によって操られ、仕方なしに、概念的に生きているのではありませんか。

 たとえば、まさかあなたは、「朝起きたら必ず歯を磨いて顔を洗ってからご飯を食べる……」という概念に操られてはいませんか?

「服のボタンは上から下へかけてゆく……」という概念に操られてはいませんか?

「大便のあと右手で拭くべきか、左手で拭くべきか?」考えたことがありますか?

 生きること、日常のすべてを、ほかの人たちと同じようにしてはいませんか?

 たった一度しかない人生を、一つ一つ、無意識に概念に操られているならば何んてもったいないことか。そのことを気づかぬ限り、たぶんあなたに、自由はないでしょう。

 しかし、そうした疑問が生まれた瞬間から、あなたは自分自身の未来になることができるかも知れないのです。

――『家出のすすめ』

誰も死の重さを
はかることは出来ない

 幼年時代には「死ぬ」と言えなかった。

「死む」と言っては祖母たちに笑われたものである。

 だが、「死まない」「死みます」「死む」といっていた頃には、死というものが実在しなくて、死はただの事件でしかなかったのである。

 死が事ではなくて「物」として認識されるようになったのは、戦争を経てからである。

 ここに集めた死に関するいくつかの詩にも、見事なほどの存在への執着がうかがわれる。

 私の同級生のうち、自殺したものは2人しかいなかった。

 その中の1人は連絡船から津軽海峡にとびこみ、1週間後に打上げられた。私は、その女子高校生の友人の、水にさらされた遺体に手でふれてみた。