【前回までのあらすじ】「昭和の女帝」の真木レイ子は、ライバルの加山鋭達が総理の座にあと一歩まで迫ったことで危機感を抱き、右翼の巨頭、鬼頭紘太に助けを求めた。鬼頭はレイ子に頼まれるまでもなく、原発用地の買収で加山に「罠」を仕掛けていた。(『小説・昭和の女帝』#31)
レイ子が調べ上げた、女性に対する加山の独占欲と暴力性
佐藤栄作による政権は8年目を迎えていた。
その政権運営は「人事の佐藤」「早耳の佐藤」などと評されたが、何のことはない。彼の巧みな人事は、側近の加山鋭達の情報収集能力や人心掌握術のおかげだった。
佐藤派のカネは加山がつくり、その配分も彼が仕切っていた。佐藤は増長する加山を疎ましく感じ、一度は自民党幹事長から外した。しかし、結局、加山なしでは体制を維持できないことに気づいただけだった。更迭してから2年後には、加山を幹事長として再登板させた。
レイ子は佐藤政権の8年間、生かさず殺さずの状態に置かれていた。後ろ盾である鬼頭紘太の存在があるから、加山から最後までは追い詰められることはなかった。それもあって、宏池会の世話役や、大蔵省など主要省庁のタニマチとして一定の影響力を保つことができた。だが、政界でも官界でも、真の実力者が加山であることは衆目の一致するところだった。彼に比べれば、レイ子は添え物のような存在にすぎなかった。
苦境にある彼女の心の支えになった男が、2人いた。
官界では、大蔵省の藤本久人の存在が大きかった。レイ子の父、真木甚八のホームドクター兼顧問弁護士の息子である藤本は幼いころから彼女を慕っていた。最近でも彼女を裏切ることなく、目となり耳となった。官僚として頭角を現し、佐藤内閣で官房長官となった竹下登の秘書官に抜擢され、総理官邸で勤務していた。
財界では、日本製菓の創業者、横田道太郎がレイ子に身を捧げた。プレーボーイで鳴らしていた彼だったが、彼女への入れ込み具合は常軌を逸していた。食事やプレゼントのみならず、政治に使われるカネも含めて、惜しむことなく彼女に注ぎ込んだ。レイ子と横田は二人でヨーロッパを旅行するなど特別な関係になった。
タミヤ自動車の田宮浩二に対してアメリカや鬼頭がかけたような圧力が横田にもあったのか、彼はレイ子には明かさなかった。彼はオーナー社長であり、ワンマン経営者だった。同じ創業家でも、横田と田宮とでは、立場が全く違う。創業家の一員ではあるが創業者ではなく、しかも本家筋ではない田宮に対し、実権を持つ横田は幸か不幸か、身が破滅するまでレイ子に入れ上げることができた。日本製菓は71年末に経営破綻。翌72年には彼自身もこの世を去った。
横田はレイ子との関係を隠さなかったので一部の雑誌に書き立てられたこともあったが、横田と浮名を流したことで彼女の名声に傷がつくことはなかった。彼は結婚していたが、妻から「外で子供さえつくらなければ良い」と半ば容認されていたので、その点では問題はなかった。事なきを得た別の要因として、鬼頭の存在もあった。国会で、政界のタブーに切り込もうとした野党議員の女性関係を調べ上げ、政治家生命を絶ったことがある鬼頭のことを、大手のマスコミは腫れ物に触るように扱っていた。
横田がレイ子に注ぎ込んだカネは、彼女を通じて宏池会の政治家に流れ、同派が名門と呼ばれるにふさわしい派閥へと成長する一助となった。彼女は永田町で、大手菓子メーカーを一代で築いた名経営者の財産を食い潰し、宏池会を育てた魔性の女として人口に膾炙した。だが、レイ子の魔力も、次の総理を狙う加山の勢いの前では無力だった。
◇
天下取りまであと一歩の加山の耳にも、レイ子の噂は届いていた。それは、彼にとって聞きたくない情報だった。
レイ子はもう現役の政治家の秘書ではないので、国会や議員会館で鉢合わせすることはなくなった。だから、加山の頭の中で、彼女は若く美しいままなのだった。がむしゃらに権力の頂を目指す中でも、彼女のことは頭の隅にあった。
ただ、加山にとって天王山となる総裁公選に向けた票集めの最中だけは、レイ子のことなど考えていられなかった。彼は72年の5月に、佐藤派102人の中から、総裁公選で加山を支持する議員をまとめて独立した。加山派は衆院議員40人、参院議員41人の計81人に上る一大勢力となった。
加山派の旗上げは、佐藤政権の集大成である沖縄祖国復帰を祝う式典の1週間前のことだった。加山は、長年仕えた師の晴れの舞台の直前に弓を引いたのだ。師弟対決に至ったのは、佐藤が総裁公選で、加山ではなく、福田赳夫を支持していたからだった。加山としては一度反旗を翻してしまったら、ライバルの福田に勝つ以外に道はない。彼はありったけのカネを政治家たちにばらまいた。
勝利が事実上、決まったのは6月20日のことだった。同日、総裁公選への出馬が取り沙汰されていた中曽根康弘が出馬の見送りと、中曽根派として加山を支持することを明らかにしたのだ。
中曽根は、国民から飽きられている佐藤が院政を敷くであろう福田政権の誕生を阻止するためだと周辺に説明したが、一部では、鬼頭の意向を受けての決断だったともいわれた。噂が本当なら、鬼頭はキャスティングボートを握っていた中曽根を操作して加山政権の誕生に貢献したことになる。レイ子にとっては、最大の敵である加山の天下取りに、自分の支配者である鬼頭が手を貸したことになるのだった。
おまけに、レイ子が台所を預かる宏池会の領袖、大平正芳は加山の朋友だった。口から生まれてきたような加山と、口下手な大平は全くタイプが違うが、なぜか馬が合い、互いに認め合っていた。
今回の総裁公選に大平自身は出馬するものの、決選投票では宏池会として加山に投票することを約束していた。
総裁公選における大平の主眼は、三木武夫を破って、加山、福田に次ぐ3位になることだった。3位争いで三木に敗れれば、次期政権での外相ポストは三木に譲らざるを得ない。逆に、票数で三木を上回れば、堂々と外相に就き、中国との国交正常化に向けた外交を指揮することができるのだった。
大平とレイ子の間には隙間風が吹いていた。レイ子は、宏池会のカネ集めをやっている自分の意見が尊重されないことが悔しかった。
◇
加山がふらりとレイ子の事務所にやって来たのは、総裁公選の大勢が決した日の昼過ぎだった。
加山は、宏池会の事務所がある自転車会館を訪れ、大平を激励した。そのとき、ふいに同じビルの上層階にレイ子の事務所があることを思い出したのだった。
そうと決めてからの行動は早かった。秘書に「10分ほど1階で待っててくれ」と告げると、一人エレベーターに乗り込んだ。9階まで上がり、レイ子の事務所のドアをノックした。
来意を告げると、事務員が顔を引きつらせて、奥に案内してくれた。
5年ぶりの再会だった。驚いた表情のレイ子は、以前よりいくらかふっくらしていたが、相変わらず美しかった。
「このたびは、おめでとうございます。まさか、新橋でくだを巻いていた青年が、総理になるとはね」
「レイ子さんは気が早いな」
「いつか父が、『あの男は将来化けるかもしれない』と言っていたけど、その通りになりましたね」
「真木先生がそんなことを……。まさに慧眼だな」。そう言って加山は笑った。そして、「先生ほどじゃないがね、僕もレイ子さんが活躍することは、だいぶ前から見抜いていた。実際、秘書をしてくれないかと頼んだこともあったね。もし、君が来てくれていたら、いまごろ秘書軍団の統領か」
「いやよ。秘書軍団とか、加山軍団とか……。私の趣味に合わない」
「戦う集団と見られているから『軍団』なんて言われるんだ。多少、武骨過ぎる面はあったとしても、『お公家集団』よりはましだろう」
加山はそう言うと、大げさに笑ってみせた。宏池会はお公家集団と呼ばれていた。毛並みの良い元官僚や2世の政治家が多いからそう呼ばれるのだが、権力闘争に弱いことを皮肉る意味も込められていた。
レイ子は、なぜ加山が突然やってきたのか、理由を考えあぐねていた。
事務員が冷えたお茶を持ってきた。汗を拭う加山を見て、冷房を強めてから出て行った。
「どうもありがとう」
加山はにこやかに事務員に接した。お茶を一口すすって「うまいなあ」とつぶやくように言った。
加山の真意を測りかねた。もしや、単に勝利宣言をしに来たというのか。
「確かに、秘書にならないか、なんて言われたことあったわね。でも、ご存じの通り、私にはいろんな事情がありましたからね。そもそも、誰かに秘書として仕えるのは性に合わないのかもしれない。粕谷という年の離れたボスに仕えたおかげで早いうちに独立できたのは、結果的には良かったのかもしれません」
「なるほどなあ。君みたいに独立心旺盛な女性と上手くやれる男は、そうはいないのかもしれないな。その点、鬼頭氏はやはり特異な能力をお持ちなのかもしれない」
「やめてください。私の事務所で、鬼頭さんの話は」
彼女は事務員にも鬼頭との関係は明かしていないのだった。電話をかけてくるときも、鬼頭の秘書を介するか、偽名を使ってもらうようにしている。
「そうか……。しかし、そう言われると、独立心旺盛って言葉は取り消さなきゃいかんな。君は結局、鬼頭の操り人形なのかもしれん」
「ひどい言い方ね」
「いや、君は鬼頭氏のおかげでやれている部分も大きい。役所の幹部らを侍らせて楽しいのかもしれないが、やつらがへこへこするのも君の後ろに誰かがいるからだろう」
レイ子は、加山を睨みつけた。
加山の秘書兼愛人の小林亜紀が、才色兼備だと話題になったころ、レイ子はどうしても気になって、加山の女性関係を調べたことがあった。亜紀だけでなく、本妻の加山俶子、愛人で元芸者の新藤由紀子のことも、生い立ちから何から調べ上げた。
浮かび上がったのが、加山の独占欲と暴力性だった。