――「派閥」の存在意義について鈴木さんのお考えを教えてください。
よくマスコミなどで「派閥」と言っているけれども、今回の問題で消滅した派閥は、むしろ「政策集団」と呼ぶ方が実態に合っていると思います。
私が思うに、派閥という名称にふさわしいのは、「三角大福中」(*佐藤栄作が退陣した1972年以降、派閥領袖として政界を動かした5人、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘を指す)まででしょうね。親分が自分で金を集めて、人事も行い、選挙も仕切る……そして総理総裁の座へと登り詰める。これが本来の意味での派閥ですよ。
昔は、中小企業のオーナー社長などが「篤志家」となって、「自分はこの政治家を応援したい」と思えば、自腹で何千万も寄付する人がいたものです。大企業はみんなサラリーマン社長ですから、そんな金の使い方はできないでしょう。
その後、竹下(登)、安倍(晋太郎)、河本(敏夫)までは何とか続いたけれども、政治資金規正法の改正などもあって、派閥の領袖が自分でお金を集めることは厳しくなりました。その時点で派閥は終わったんです。
――自民党が長く政権の座にあった理由はさまざまだと思いますが、そのひとつに、今回のような不正なカネの流れもあったのでしょうか?
いやいや、不正じゃないんですよ。法律に「政治資金を集めてはいかん」とは書いてないんですから。
今回は、派閥から議員個人へのキックバックがあって、それが「政治資金収支報告書に記載されていなかった」ことが不正であって、キックパックという行為そのものは何も悪いことじゃないんです。
現に、私が小渕派(現・茂木派)にいたときもやってました。私は1枚2万円のパーティ券を2000万~3000万円分売りましたが、1円残らずすべて派閥に上納して収支報告書にも記載しています。派閥も収支報告書に記載している。きちんと届け出さえしていれば何も問題ないんです。
ベテラン議員はパーティ券をたくさん売って派閥の維持に貢献し、若い議員にお金が回るよう面倒を見るのが当然です。鈴木宗男が今も生き延びているのは、そのおかげだと思います。
――会計責任者だけが罰せられているが、会計責任者や秘書と政治家との関係性とは?
腹の底から信頼できる秘書を持つことができるかどうかが、政治家としての成否の分かれ目だと思います。
例えば、田中角栄先生は、全権を掌握する秘書を置かず、金集めは佐藤昭子、金配りは榎本敏夫、日程調整は早坂茂三……というように、複数人の秘書に役割分担をさせていました。これが失敗でしたね。
ロッキード事件で丸紅から受け取ったとされる5億円についても、田中先生が心から信頼して、すべてを委ねることができる秘書がいれば、きちんと届け出できたはずなんです。
その点、竹下登先生と、金庫番と呼ばれた青木伊平さんの関係は強固でした。
青木さんは私にとっても兄貴のような存在で、大事にしてもらいました。1983(昭和58)年に中川先生が亡くなって、私が北海道5区から立候補したとき、自民党の公認を得られず無所属で立候補することになったんです。
ある日、金丸(信)先生が「鈴木、竹下に話をつけてあるから、帰りに竹下の事務所へ寄っていけ」と言うので訪ねると、青木さんが、金丸先生が話していた2倍の金を用意してくれてたんですよ。
私は、「いやいや、金丸先生からは○○円と聞いてますから」と言って一袋返そうとすると青木さんが、「鈴木さん、党の公認をもらえなければ選挙資金に困るだろう。これは俺の気持ちだと思って持っていけ」というんです。いま思い出しても涙が出ます。
同時に、竹下先生が青木さんという秘書に、いかに大きな信頼を寄せているかを感じました。その点、田中先生は不幸でしたね。
私自身も、かつては中川一郎先生の秘書を務めましたが、中川先生は常々、「政治家と秘書の関係は、夫婦みたいなもんだ」と言っていました。
ロッキード事件で田中先生が逮捕されたとき、中川先生が記者会見で、「俺は田中先生のようにはならない。俺に何かあったら鈴木が全部責任をとってくれる」と言い放ったんです。私はもう寒気がして、鳥肌が立ちましたね。「この人のために、間違いは起こせない」と強く感じました。
「女房と別れても、鈴木とは別れない」とも言ってくれました。田中先生にも、心の底から信頼できる秘書がいれば、あんなことにはならなかったはずですよ。