ただ、そこからが問題でした。1996年1月に村山さんがいきなり政権を投げ出し、後任は橋本龍太郎総理(編集部注/橋本は1995年9月に自民党総裁に選出され、10月から副総理を務めていた)となり、やがて解散総選挙が取り沙汰されるようになりました。

 私は当然新進党公認で立候補しようと思っていたし、挨拶回りも始めていました。選挙制度が小選挙区比例代表並立制に変わった最初の選挙でした。自民党候補は父(編集部注/石破二朗)の後に鳥取県知事を務められた平林鴻三先生でした。

 ところが、新進党の選挙公約を巡って、私にとって信じられないようなことが起こります。選挙前には、新進党内で様々な政策が論じられており、安全保障政策もその1つで、私の担当でした。その中で、集団的自衛権行使の是非についての議論がありました。

 石破vs岡田克也論争とも言われたようですが、集団的自衛権の行使が現行憲法でも認められるかどうかについて、岡田さんは認められるはずがないという立場、私は今の憲法でも十分認められるという立場で、それぞれの持論を戦わせ、それを中野寛成さん(新進党元政策審議会長)らが面白がって見ている、という会が、週に1回くらい開かれていました。これこそ、「ザ・ディベート」といった感じで、政治家同士が交わす本質的議論だった、と今でも思います。

いつの間に決まったのか?
こんな公約を掲げて選挙はできない

 私自身、一定の整合性をもった理論として完成できたという自負もありましたし、党の公約にも何らかの形で反映されるのではなかろうか、という期待もありました。

 そして、橋本総理が衆院を解散した日(編集部注/1996年9月27日)でしたか、新進党本部からファクスで、選挙公約が届きました。それを見て私は愕然とするわけです。そこには、「集団的自衛権は認められないこと」「消費税は20世紀中は3%で据え置くこと」と、明確に書いてある。そんなことがいつどこで決まったのかと。石破vs岡田論争も含め、これまでの党内論議の蓄積はどこに行ってしまったのか。私自身は、集団的自衛権は認められると思っているし、消費税は早く上げるべきだと思っていたので、こんな公約を掲げて選挙はできない、離党しよう、と決意しました。