要は野党議員を応援しているようでは、地方では仕事が回ってこない。死活問題になってしまうのです。これが一番堪えました。私を政界に送ってくれた人たちでした。彼らがいたからこそ、29歳の初戦で当選できた。中選挙区で元知事や元大蔵次官といった人たちを相手に、何とか最下位で潜り込めた。一番つらい時に助けてくれた人たちがここまで言ってくれているのに、私1人が理想を貫き通すんだといい顔をしているわけにはいかないなと。

 それに私の中では、復党の何が悪い、当然ではないか、という居直りに近い感情もありました。そもそもは政治改革でした。リクルート事件(編集部注/江副浩正リクルート会長が自社の政治的財界的地位を高める目的で、有力政治家、官僚、通信業界有力者に子会社であるリクルート・コスモス社の未公開株を譲渡した、汚職事件。1988年に発覚)があり、カネのかかる政治を排し本格的な政権交代を行うための制度改革に熱心に動き、最も重要な政策でより考えの近い政党を選んだ、だから自民党を離党した。

 そして、今度はまた、集団的自衛権の解釈、消費増税の是非、という基幹的な政策で、より自分の考えに近いところを選び、自民党に戻る。

 ただ、これはとても表で言える話ではありませんでした。私の離党、復党を快く思っていない人が自民党内には沢山おられました。細川護煕政権(編集部注/日本新党、日本社会党、新生党、公明党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合の8党の連立政権)で野党に転落したこともあり、自民党に一度でも弓を引いたのは許せん、といった感情が残るのも、仕方のないことだったと思います。地元でも、新進党の私と戦った相沢英之派(編集部注/鳥取2区選出)の人たち、平林派の人たちは石破の復党などとんでもない、の大合唱でした。特に平林先生は私のせいで比例に回る羽目になったという経緯もありました。

気配りと根回しの竹下登が
針の筵の石破茂を救った

 そんな時に一番力を貸してくださったのが竹下登先生でした。平林派、相沢派の県議さんたち1人1人に直接お電話してくださったおかげで、その後、私が1軒1軒回り、お詫びやご説明をすることができました。市議さんや町議さんたちも含め、何とかご理解を戴けたのは竹下先生のご連絡あってこそでした。