離党に際して、羽田孜先生だけには仁義を切っておこうと電話しました。「石破よ、お前何を考えているんだ。自民に代わる二大政党を作ろうと言ったじゃないか。お前が抜けたら新進党はどうなるんだ」と説得してくれましたが、この時の私は収まりませんでした。「私はこの党は駄目だと思ったんです。公約には賛同できないし、権力闘争ばっかりやっている」とね(編集部注/1993年6月、羽田は政治改革を旗印として小沢一郎とともに自民党を離党して新生党を旗揚げ。1994年12月に他党派を糾合し、衆参議員214人からなる新進党を結成したが、党首選では小沢が推す海部俊樹に敗れ、翌1995年12月の党首選では小沢との一騎打ちで敗北。小沢執行部との対立を深めていた)。
今思うと多分に衝動的だったのかもしれません。私の中には、どうもへそを曲げて大勢に逆らいたくなるDNAがあるようです。節目節目にそれがいたずらして私を不連続の世界に投げ込んでいくのですね。
この時も前後見境なく新進党を離党して、選挙は無所属で戦いました。そうしたら、自民党側から調整があったのです。「無所属で出ても石破は当選するだろう。それで平林氏が落選するようでは困る」と。自民党幹事長は加藤紘一先生、国民運動本部長は亀井静香先生でした。「ぜひ石破君、自民党から出てくれ、平林君は比例に回す」という打診をいただきましたが、私は「ただ新進党の公約に納得できなかっただけです」と申し上げて、無所属のまま出馬し、平林先生は比例に回り、選挙区(編集部注/鳥取1区)では私が当選となりました。
主義主張を実現できそうな
政党に乗って何が悪いのか
それから半年もたたない1997年3月、私は自民党に復党します。
勢いよく離党した人間がなぜまた舞い戻ってきたのか。やはり選挙区からの要望もありました。地元の業界団体の人々が東京にやってきて、こう言うんです。「代議士ね。あんたの理想も、正義感もわかるよ、だけど、俺たちだって家族も従業員もいるんだ。頼むから自民党に帰ってくれ」と。