日本よりポリコレが過激に進んでいて対立も深刻な米国では、米マクドナルド、メタ(旧フェイスブック)、米アマゾンなどの一部の大手企業がDEI(多様性、公平性、包摂性)推進の中止を決定した。米アマゾンに至ってはDEI施策を「時代遅れの取り組み」とまで評している。

 ポリコレもやりすぎると公平性がなくなってしまうので、それに気付いて「ちょっとここらでやめておこう」となっているわけである。

アメリカで「行き過ぎたポリコレ」の反動

 その方針転換が企業として、または人として正しいかの議論は他に譲るとして、行き過ぎたポリコレの反動が今出てきているのがアメリカである。ここからさらに何度か行ったり来たりして、うまいバランスを探っていくのであろう。

 日本はどうなるか。今回の江頭さん周りの騒動で、日本人のポリコレに対する温度感はなんとなく伝わってきたから、ポリコレの扱い方に関して再考される機会が増えるはずである。ただ怯える対象一辺倒だったポリコレに、ちょっと立ち向かう選択肢が出てきた。

 今さらだが、ポリコレは必ずしも悪ではない。ポリコレは傷つく人をむやみに増やさないための賢明なガイドラインであり、きちんと用いれば美しい配慮の知恵である。だがポリコレにパラノイアぎみに固執したり、ポリコレを絶対正義として振りかざしたりすると暴力になるので、(何でもそうだが)行き過ぎることなく程々の塩梅が望ましい。

 しかしもし脱ポリコレの流れが起こったとしても、社会が「ポリコレェ~」と取り憑かれた期間は無駄にはならないはずである。行動や発信、決定の向こうに、見えないけど配慮すべき相手がいると想像すること、これこそがポリコレにおける尊重すべき初期衝動で、この配慮の習慣化を体得した上で脱ポリコレを図ることには大きな意義がある。

 知らないからできないしやらないのと、知っていてあえてやらないのには雲泥の差がある。配慮が一度行われたか行われていないか、ここの差で、社会の思慮深さや優しさは大きく異なってくる。社会にとって、配慮はあるだけいいものに違いない。

 より深い配慮のもと、エンタメにおいては攻めるのか攻めないのか。この選択の積み重ねがより良いエンタメを形成していくはずである。