ここのところテレビを観ない。たまには観るとしても、その多くはニュースとかドキュメンタリー。他の番組はまず観ない。

 などと書くと、いかにも高尚さを気取っているように思われるかもしれない。でも事実だから仕方がない。テレビ離れはここ数年の傾向だったけれど、最近はそれがさらに進んでいる。

 だってテレビはうるさい。

 この「うるささ」は、ボリュームを下げれば解消できるような「うるささ」ではない。ボリュームを下げてもうるさい。工事現場とか飛行機の爆音とか、そんな類の「うるささ」とは違う。いろんな音が重なっている「うるささ」だ。

 テレビは映像と音のメディアであるはずなのに、聴き比べてみると音だけのメディアあるラジオのほうがずっと静かだ。ラジオは語りかける。言葉を届けようとする。でもテレビは言葉を届けることにあまり熱心ではない。語りかけるのではなく叫ぶ。大声をあげる。奇声を発する。

 なぜならテレビは加算のメディアだからだ。

 たとえばアマゾンで新種の動物を探すドキュメンタリーを撮る企画があるとする。でもテレビは(特に民放の場合は)、その動物探しの映像だけを放送するという発想はまずしない。それだけでは不安なのだ。だからいろいろ加える。足す。まずはロケにレポーターを起用する。撮り終えて帰国してだいたいの編集(これを業界用語で荒編という)が終わった段階で、今度はスタジオ収録を加える。パネラーとして複数のタレントを配置して、司会者も交えながら、荒編したアマゾンのVTRをみんなで観る。観てしゃべらせる。

 こうして収録したスタジオの映像を、アマゾンの映像と合わせてもう一度編集する。ほぼ規定の時間に収めたら、今度はそこにナレーションを加える。SE(効果音)を足す。場面を盛り上げたり強調したりする音楽を加える。スタジオ収録に参加した一般の人たちの笑い声や驚きの声も足す。最近ではスタッフたちのけたたましい笑い声も加えることも流行だ。テロップもたっぷり入れる。VTRの映像にワイプ(小さな小窓)で、スタジオのタレントたちが驚いたり笑ったりしている表情を入れる。

表現の本質は
加算ではなく減算だ

 とにかく足せるものは何でも足す。ほとんどフルーツポンチ状態だ。行間や余白がない。だから届かない。テレビが表現であるかどうかは微妙なところだけど、表現の本質は加算ではなく減算だ。視聴者に届けたいという思いが本当にあるのなら、オートマティックな加算はその意図を弱めるばかりなのだということくらいは、テレビ番組制作者たちは知っておいたほうがいい。偉そうだと我ながら思うけれど、制作の現場を離れたからこそ、見えてくるものはたくさんある。