「2人がラザロに言及したのは偶然の一致です。そこから強引に意味をくみ取る必要はないでしょう。それでも私は無視できなかったんです」
夫の意思を感じ取ったのだろうか。
「筆跡を見ていると、まるで彼が生きているようでした。まさに復活です。なぜ、彼はこれを書いたのだろう。亡くなる7年も前です。プーチンがラザロに言及するのを夫は知りません。ただの偶然なんだけど、死者の復活を感じたのは確かです」
英国社会の空気の変化
「何よりも経済が大切」
英国の政治状況はその後、混迷し、プーチンは容疑者の引き渡し要求を拒否し続けた(※4)。事態は膠着し、時間だけが過ぎていく。ロシアを動かすには国際的な圧力を強めるしかなかった。英国がそれを主導してほしいとマリーナは願った。しかし、政治状況は逆方向に進む。英国政府は突然、ロシアとの関係改善を模索し始めた。選挙で政権が交代したためだった。
(※4)…編集部注/リトビネンコ氏は、亡命先のイギリスで放射性物質・ポロニウム210を服用させて殺害され、ロンドン警視庁が捜査に乗り出す。リトビネンコ氏の証言や放射性物質の痕跡調査により実行犯2名を突き止め、身柄の引き渡しを要求。しかし、ロシア側はそれを拒んでいた
1997年にトニー・ブレアが43歳で首相となって以来、英国では労働党が政権を担ってきた。ブレアの人気に陰りが見え始めたのは、2003年のイラク戦争がきっかけだった。
米国はフセイン政権が大量破壊兵器を所有していると主張し、国連安全保障理事会の決議のないまま英国とともにイラクに侵攻する。
ブレア政権は侵攻前、「フセイン政権は大量破壊兵器を持っている」「45分間で実動装備できる」と脅威をことさら強調した。情報は後に誤りと判明する。この侵攻では179人の英兵が命を落とした。誤った情報で自国兵士の命が奪われた。
国民の支持を失ったブレアは2007年6月、首相を辞任し、後任にはゴードン・ブラウンが就いた。それでも支持率は回復せず、2008年5月の世論調査では、労働党への支持は27%で、1987年以来の低水準に落ち込んだ。