日産の国内販売台数140万台→47万台に激減
かつて日産は、消費者が欲しいと思うクルマを世に送り出すことで成長してきた。1955年に発表した、小型乗用車の「ダットサンセダン(110 型)」は、日産が戦後初めて新しい設計を行った4人乗りの乗用車だ。マイナーチェンジを施した112 型は、毎日工業デザイン賞を受賞するなど日産が成長する基礎を築いた。
1960年代、日産はたくさんのヒット作を生んだ。「スカイライン2000GT」や「シルビア」などスポーツセダンは多くの若者の心をつかんだ。「ブルーバード」は66年の第14回東アフリカサファリラリーで優勝を果たした。スカイライン、シルビア、ブルーバードは当時の一般庶民にとっては、やや価格帯が高く羨望(せんぼう)の的だった。
一方、66年に出したサニーは、先に述べたように庶民も頑張れば手が届く価格で、わが国のマイカー時代の幕開けを支えたクルマだ。高度成長期にサニーは大衆車としての地位を確立し、日産の成長を牽引した。
日産の転機のひとつは77年ごろ。当時、社長に就任した石原俊氏が「グローバル10」なる経営計画を掲げた。「世界シェア10%」を目指し始めたのである。日米貿易摩擦に対応する狙いもあり、日産は米欧での設備投資を急拡大した。さらに、コアなファンが多かったダットサンブランドを日産に集約した。
しかしグローバル10戦略は、さほど成果を上げられなかった。海外では商習慣の違いなどもあり販売は苦戦。一方、国内では85年ごろからバブル景気が過熱していった。85年に104万台だった日産の国内販売台数は、90年に140万台に増加。国内がバブル経済で好調だった分、海外投資が過剰なことの深刻さに気付くのが遅れたともいえるだろう。
90年代初頭にバブルが崩壊すると、日産の業績は急速に悪化。97年度までは政府の景気対策の効果もあって国内販売台数は100万台を維持したものの、98年以降は右肩下がりで推移し、2024年は47万台に落ち込んでいる。