また、かりにグルメサイトを参考にして選んだお店が美味しくなかったとしても、「食べログで3.5点だったのに」などと、失敗の責任をグルメサイトに転嫁することもできます。ランキングは、自身で決めたことに付随する責任の一端を担保してくれる役割も果たすのです。
「エビデンス」=「正しい」
とは限らない
リスク回避の手段の延長線上にあるのが、昨今さまざまな場面で見られるようになった「エビデンスを提示せよ」という要求です。最近、何らかの決定をするさいに、データなど説得力のある根拠を求められるシーンが増えてきました。
たとえば、2020年に猛威を振るった新型コロナウィルス感染症の対策を検討するさい、エビデンスの有無がたびたび取り上げられていました。「その対策が効果的だというエビデンスはあるんですか」などといった論調です。
たしかに、何らかの決定を下すにあたり、その根拠を説得力のあるデータで示すのは大事でしょう。一方で、あまりにエビデンスを強要されてしまうと、根拠のない話題を扱ってはいけないような息苦しさを感じます。
『自己決定の落とし穴』(石田光規 ちくまプリマー新書、筑摩書房)
私たち人間には必ずと言っていいほど揺らぎがあります。いくら客観的データでもって有効性が示されたとしても、それ以外のことをやりたくなることもあるのです。
身体に悪いと思っていても、味付けの濃いものを食べたくなることもあります。それも人間らしさのひとつでしょう。
また、「エビデンスの提示」が「正しさの証明」にならないこともあります。そもそも、世のなかで目にする多くの現象は、まだ解明途上にあるのです。ある時期までは「健康によい」と思われていた行為が、研究の進歩により「健康に悪い」と判断されることなどしばしばあります。
リスク回避にばかり目を向けてしまうと、行動の幅が狭まって窮屈になるばかりか、新たな可能性を見逃すことにもなります。
「自由に決めてよい」と言われるほど、リスクの少ない経路を求めてしまう。自己決定が重視される世のなかで、私たちがそのような性質を持ち合わせていることも忘れるべきではありません。







