吉田茂、鳩山一郎から寵愛を受け
1955年の保守合同の最終協議に立ち会う

 首相だった吉田が、一秘書にすぎない辻トシ子を重用した理由は、彼女の父、辻嘉六に恩があったからだ。戦後初の総選挙で鳩山一郎が率いる日本自由党が第一党になった。しかし、鳩山内閣が誕生する直前に、GHQから鳩山が公職追放を受けてしまい、政界は大混乱に陥る。そのとき、「鳩山がダメならそれに代わるのは吉田しかいない」と、反吉田の議員たちを説得して、吉田内閣の成立を後押ししたのが辻嘉六だった。

 辻トシ子が父から受け継いだ政治的な遺産は、吉田への“貸し”だけではなかった。辻嘉六が、戦前から政治家にカネをばらまいたり、便宜を図ったりしていたことを他言しなかったのと同様、辻トシ子も過去の経緯について“余計”なことは語らなかった。

 日本の政党史を研究する青山学院大学文学部史学科教授の小宮京は、辻トシ子が「辻」の名前を継承したことの意味をこう語った。「辻嘉六は、何をやった人かほとんど知られていない。政界関係者は、嘉六がおカネをいろんな政治家に回していたのを知っているが、そのことを本人はしゃべらない。これは信頼になる。辻トシ子は、あの辻の娘だからということで口が堅いとみられた。普通なら本人が10~20年かけて積み上げなければいけない信頼を最初から得られていた。それが政界で非常にプラスになったと考えられる」。

 父から辻トシ子が引き継いだのは、政治的遺産だけではなく、財産もしっかり相続していた(詳細は#9『自民党のゴッドファザー・辻嘉六の“遺言状”を公開!児玉誉士夫、米情報機関とのつながりが判明…結党資金を鳩山に差し出した黒幕の遺産の行方』参照)。吉田政権の秘書官らが毎月23日に、料亭、弁慶橋清水に集まる二三会というグループがあった。彼女が長らくその会長を務めていたのは、会合の費用の一部を補っていたからだとされる。

吉田政権の秘書官らがつくった二三会が料亭で開いた会合吉田政権の秘書官らがつくった二三会が料亭で開いた会合。辻トシ子はこの会でも中心的な役割を担った
雑誌のモデルになった写真雑誌のモデルになったこともあった。この写真は秘書になってから撮影されたものとみられる

 吉田内閣が総辞職する要因となった、造船業界と政治家の贈収賄事件、造船疑獄にも辻トシ子は関わっていた。同疑獄事件で、与党・自由党に流れた使途不明金380万円について、東京地検特捜部から5時間の取り調べを受けたのだ。

 その際の顛末を、辻トシ子の側近が本人から聞いていた。彼女の個人事務所、三十六会が入居していた日本自転車会館の地下にあった割烹たいへいの元女将で、晩年の辻トシ子の身の回りの世話をしていた大﨑ひろみが語る。

「辻嘉六の娘だと分かった途端に急に(検事の)態度が変わって、『もう結構ですからお引き取りください』と言われて車で送っていただいたと聞いています。その後、(自由党幹事長だった)佐藤栄作さんから、『私が全てやったんですって君が言えば全て丸く収まったのに、言わなかったんだね』と言われて、辻(トシ子)先生は激怒したそうです。それからもう朝会ってもおはようも言わないし、顔が合っても知らんぷり。すると佐藤さんのほうが参ってしまって謝りたいと言ってきたそうです」

 そうした経緯があって、後日、佐藤が謝罪するための会食が料亭で行われることになった。大﨑によれば、辻トシ子は懇意にしていた同世代の大蔵官僚、村上孝太郎(のちに事務次官。石破政権で総務相を務めた村上誠一郎の伯父)と寿司屋で時間を潰し、わざと佐藤との約束に遅れて行ったのだという。総理候補の自由党幹事長を、待ちぼうけさせるというだけでもかなりの度胸だが、料亭に着いた辻トシ子はさらに驚くべき行動に出る。

「1時間ちょっと遅れて行くと、佐藤さんが手を突いて謝ったそうです。辻先生が、『そうね、じゃあ〈リンゴの唄〉でも歌ってくれたら許してあげるわ』と言ったら、佐藤さんは『はい、歌います』と言って、たじたじでお歌を歌いになったそうです。大きい体を小さくしてと(辻トシ子が)よくおっしゃっていました」(大﨑)

 このとき彼女は36歳。佐藤は53歳である。総理候補で、与党の幹事長の職にある佐藤を土下座させ、歌まで歌わせるのは余程、肝が据わっていなければできないことだ。

 辻トシ子が並の秘書ではなかったことは、1955年の保守合同でのエピソードでも明らかだ。何と彼女は、日本民主党代表の鳩山と、自由党代表の吉田が、両党の合同について最終的な協議を行った場に居合わせた。彼女が秘書として仕えていた益谷が衆院議長だったこともあり、議長室で、秘密の会合を開いたという。

 石井に辻トシ子が明かしたところによれば、彼女は“給仕役”として、鳩山にはお茶、吉田にはシェリー酒、益谷にはウイスキーを運んだという。だが、彼女が、鳩山と吉田の後ろ盾だった辻嘉六の娘だったことを踏まえれば、実際には、給仕役ではなく、“立会人”だったとみるのが妥当ではないだろうか。

 その後、自民党政権下で、池田勇人内閣が誕生すると、辻トシ子は自民党幹事長の秘書として活躍。秘書として仕える益谷よりも、権限があると見られていたため、党関係者の間では「辻幹事長、益谷秘書」などとささやかれていた。

1953年の総選挙の自民党公認候補を決める名簿1953年の総選挙の自由党公認候補を決める名簿。公認決定の印鑑は「辻」となっている。広島一区には、岸田文雄の祖父、岸田正記の名前がある 拡大画像表示

 前出の藤井によれば、辻トシ子の権力のピークは佐藤政権の時代(1964~1972年)だという。政界入りする前、大蔵官僚だった藤井は佐藤政権当時、竹下登官房長官の秘書官を務めていた。首相官邸で、間近に彼女を見ていた藤井は、「辻トシ子は(首相の)佐藤と同等(の扱い)だった」と驚くべき事実を明かした。そして、「(藤井のボスである)竹下さんは(辻トシ子の前では)直立不動でした」とも語った。

 彼女の権力の源泉は、辻嘉六の世話になった吉田など、大物政治家から寵愛されていたからだが、それだけではなかった。実際、鳩山は1959年に、吉田は1967年に死去したが、その後も辻トシ子は権力を維持した。それができたのは、本人の努力と才能があってこそだろう。とりわけ、主要官庁の幹部らとの人脈は、彼女自身が開拓したものといえる。本特集の#11『「昭和の女帝」辻トシ子が大蔵省、通産省などの官僚を意のままに動かせた秘訣は?霞が関を掌握することで銀行、トヨタ、電力会社も影響下に』〈1月16日(金)配信予定〉では、辻トシ子が、大蔵省をはじめとしたエリート官僚らを動かすことで、政界、財界への影響力を強めていった経緯を明らかにする。(敬称略)

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