45年にわたりトヨタ車を北米に輸出する
巨大プロジェクトを、通産省を使って支えた女帝
米国では1970年代、日本からの工業製品の輸入が大幅に増え、対日感情が急激に悪化していた。とりわけ日本製の車は、米国の自動車メーカーにとっても、工場の労働者にとっても脅威だった。
そうした中で、スガハラが考案したのが、米国人の感情に配慮しつつ、日米間の貿易を増やす方策だった。冷蔵機能を持つ特殊な自動車運搬船を新たに建造して、日本から車を運ぶとともに、米国からは柑橘類などを日本に輸出するプランだった。
新型船の建造には90億円ものカネが必要だったが、従来スガハラのビジネスパートナーだった大洋漁業が共同出資者としてプロジェクトへの参加意向を示した。
大洋漁業にとってこのプロジェクトは渡りに船だった。なぜなら、同社では、1977年の200海里漁業水域の設定によって遠洋漁業が制限される影響で、陸上で8000人、海上で2万人もの余剰人員が発生するとみられていた。自動車運搬船が就航すれば、仕事がなくなる船員が働く場所にもなるというわけだ。
アイデアを思い付いた後のスガハラの行動は早かった。日系自動車メーカーに飛び込み営業を行い、プロジェクトの意義を説明して回ったのだ。初めに声を掛けた日産自動車は興味を示したものの、結局、乗ってこなかった。それならばと、次に訪れたのがトヨタ自動車販売(現トヨタ自動車)だった。同社の加藤誠之(せいし)社長が「面白い!やろう」と言ってくれた。
新型船の建造は、大洋漁業のグループ会社だった佐世保重工業(現在は、名村造船所の完全子会社)で行うことになった。
こうした海運事業の計画と同時並行で、スガハラは、辻トシ子の政界、官界の人脈を駆使して、オレンジ自由化交渉を進めた。彼は、オレンジと牛肉の輸出拡大のために、米連邦議会から30万ドルを受け取って活動するロビイストでもあった。
結果的に、スガハラと辻トシ子の政治、ビジネス両面にわたる企ては大成功する。詳細は前出の記事を参照してほしいが、1978年の日米合意によって、日本はオレンジの年間輸入量を4万5000トンから1983年までに8万2000トンに増やすとともに、オレンジやグレープフルーツのジュースの輸入も増大させることになった。
スガハラは、オレンジ自由化を日本政府に働き掛けながら、同時に、フロリダ州のグレープフルーツ生産者らを組織化して輸出に向けた体制づくりを行った。
新型の自動車運搬船「サンベルト・ディクシー」の就航は、いみじくもオレンジの輸入枠拡大で日米交渉が妥結した1978年だった。
自動車運搬船「サンベルト・ディクシー」の前で写真に写るトヨタと米国の柑橘輸出プロジェクトの関係者
サンベルト・ディクシーは、FM社と大洋漁業が50%ずつ出資する海運会社グレートアメリカンラインズ(GAL)社が所有、運航した。
米国側としても、日系資本の海運会社の船が日本車を運んで来るよりも、日米の折半出資とはいえ、米国資本が入った会社の船が輸送し、かつ、帰りには米国産農産物を日本に運んでくれるほうが感情的にも受け入れやすい。USTR(米通商代表部)の高官が、望ましい「Two Way Trade」という言葉で賞賛したこともあったという。
このプロジェクトは、政治的な意味だけでなく、ビジネスとしても成功し、莫大な利益をスガハラや大洋漁業にもたらした。竣工翌年の1979年に起きた第2次オイルショックで石油価格が高騰し、燃費の良い日本車への需要は急増。1988年には、日米交渉で、オレンジや牛肉の輸入枠の撤廃が決まり、関税さえ払えば自由に輸入できるようになった。サンベルト・ディクシーが運ぶべき荷物は増え続けたのだ。
2002年にはサンベルト・ディクシーの後継船である「サンベルト・スピリット」が就航。トヨタ自動車との契約が終了する2023年まで、トヨタ車と、グレープフルーツやオレンジ、牛肉などを運び続けた。
ところで、辻トシ子は、このプロジェクトにどのように関わったのか。米国から運ぶ農産物の自由化交渉を行うスガハラに日本政府のキーパーソンを紹介し、交渉を前進させたことは前出の記事の通りだ。
他方で、トヨタ車の輸出にどのように関わっていたかは不明な点が多い。ただし、佐世保重工業で行われたサンベルト・ディクシーの引き渡し式に彼女が出席した際は、大洋漁業社長の中部藤次郎が空港で彼女を出迎え、かばん持ちをするほどの歓待ぶりだったというから少なからず貢献はしていたとみられる。
FM社関係者は、「辻トシ子先生は、政界に顔が利くだけでなく、通商産業省(現経済産業省)と運輸省(現国土交通省)の官僚を押さえている。通産省からはOBが役員としてトヨタに天下りしている。彼女がバックに付いているだけで心強かった」と話す。
実際、通産省の事務方のナンバー2である通産審議官からトヨタ自動車に天下りし、2001年から常務取締役、その後、副社長や副会長を歴任した中川勝弘は、辻トシ子が可愛がった官僚の一人だった。同関係者は、「トヨタ役員の中川さんはGAL社のパーティーに出席してくれていた。それは、辻トシ子先生の存在があってこそだと思う。辻先生はサンベルト・スピリットの事業が安定的に継続することを後押ししてくれる存在だった」と明かす(辻トシ子の中央省庁への影響力についての詳細は、本特集の#11『「昭和の女帝」辻トシ子が大蔵省、通産省などの官僚を意のままに動かせた秘訣は?霞が関を掌握することで銀行、トヨタ、電力会社も影響下に』参照)。
サンベルト・ディクシーとサンベルト・スピリットは1978年から45年にわたり、概算で123万5000台のトヨタ車を運搬した。これに1台当たりの輸送料315ドル(米国の東岸420ドル、西岸210ドルの平均)を乗じると3億8900万ドル(現在の為替レートで約600億円)にもなる。
大洋漁業やFM社は、GAL社から投資額を大幅に上回る配当を得ることができた。FM社だけでなく、大洋漁業も長年、辻トシ子の主要なスポンサーだった。
なお、トヨタ自動車と辻トシ子を巡っては、一つ興味深いエピソードがある。彼女が2020年に死去する数カ月前に、自宅に米国からファクスが届いた。そこには、「辻さんと(トヨタ自動車の創業家出身で社長、会長を務めた)豊田章一郎さん(とファクスの送信者)の3人しか知らないことがある。それを解決しておかなければならない」と書かれていたという。
ファクスを受信したのを確認したのは、辻トシ子に顧問を依頼していた湘南技術センター社長(現会長)の原田宏一と、当時、彼女の生活の世話をしていた大﨑ひろみ(三十六会が入居していた日本自転車会館地下にあった割烹たいへいの元女将)だ。原田と大﨑はファクスを見て、「何か大切なことだ」と直感した。しかし、辻トシ子が100歳を越えていたこともあり、交渉は進展しなかった。「ファクスを受信した後に届いた手紙に、『私(ファクスの送信者)も病気だから、もうこの話はやめにしましょう』と書いてあり、やりとりが終わってしまった」(原田)という。
2023年には、豊田も泉下の人となった。彼と辻トシ子にいったい何があったのかは、謎のままである。(敬称略)
Key Visual by Noriyo Shinoda













