製薬フロンティアPhoto by Kazutoshi Sumitomo

江戸時代から続く大阪の薬のまち「道修町(どしょうまち)」。2025年秋に塩野義製薬がJR大阪駅前に本社を移転し、大手製薬による“道修町離れ”が一段と進んだ。そこで、連載『製薬フロンティア』内の特集『道修町×大阪製薬』の本稿では、道修町のコア(核)と呼ばれた国内製薬最大手の武田薬品工業に焦点を当て、最後の創業家社長・会長だった武田國男氏(2024年死去)の“本音全開”の本誌ラストインタビューを再掲する。いまや外国人中心の経営陣の下、すっかり米国企業化した武田薬品。当時の武田國男氏は、武田薬品の未来をどのように語っていたのか。(ダイヤモンド編集部 土本匡孝)

 1781年に創業した国内製薬業界最大手、武田薬品工業。「(武田)長兵衛」の名を代々引き継ぐ形で創業家出身のトップが組織をけん引し、この“武長(たけちょう)さん”は昭和の中頃までは薬のまち大阪・道修町で最も発言力のある人物だったようだ。例えば、道修町出身で元四天王寺国際仏教大学(現四天王寺大学)教授の三島佑一氏著『薬の大阪道修町 今むかし』によれば、「武長さんが一声かけたら、道修町の者が皆動く」と紹介されている。

 この世襲制の「武長さん体制」は6代目(1943~74年社長)で終わり、74年からしばらくは武田姓ではない親戚やサラリーマン社長が経営トップに就いた。すると道修町において、「昔の大旦那としての発言権が薄らいで来た」(前出の三島氏の同著より)という。

 創業家が再びトップに返り咲いたのは、1993年に社長に就任した武田國男氏。6代目武田長兵衛の三男だ。國男氏は武田長兵衛を名乗らなかったものの、医療用医薬品事業への集中など創業家社長ならではの大胆な改革を進め、2003年に会長となり、09年に会長を退いた。その後表立った動きはなく、24年に亡くなっている。

 武田國男氏の後任社長となったのが、長谷川閑史氏(03年~14年社長)だ。さらに14年からは、海外メガファーマ(巨大製薬会社)の幹部経験があるクリストフ・ウェバー氏が社長を担い、大衆薬子会社(現アリナミン製薬)の売却や約6兆円もの巨額買収、リストラなどを断行した。そのウェバー氏も26年6月の定時株主総会で退任が決まっており、次期社長は現在グローバルポートフォリオ ディビジョン インテリムヘッドのジュリー・キム氏が就くと発表されている。

 さて、武田國男氏の『週刊ダイヤモンド』におけるラストインタビューは09年4月11日号で、リストラ、M&A(企業の合併・買収)など、武田薬品の近未来が見えていたかのようなきわどい発言も飛び出していた。18年に東京・グローバル本社が起工するまでは、まさに「道修町のコア(核)」だった武田薬品。ウェバー体制下で一気に米国中心の実質米国企業となったが、次のキム体制ではどう変化していくのだろうか。(ダイヤモンド編集部 土本匡孝)

最後の創業家社長が語っていた
グローバル化、M&A、リストラの是非

「週刊ダイヤモンド」2009年4月11日号「週刊ダイヤモンド」2009年4月11日号より

 どん底が続く世界経済だが、かつて、将来を見通して大胆な改革を成し遂げてきた武田薬品工業の武田國男会長の目にはどう映っているのか。企業や経営者への特効薬はあるのだろうか――

――世界中が不況一色ですが、昨今の状況を、どのように見ていらっしゃいますか。

 そんな難しいことわからないですけどね。