製薬フロンティア江戸時代から続く大阪の薬のまち「道修町」 Photo by Masataka Tsuchimoto

江戸時代から続く大阪の薬のまち「道修町(どしょうまち)」。2025年秋に塩野義製薬がJR大阪駅前に本社を移転し、大手製薬による“道修町離れ″が一段と進んだ。そこで、連載『製薬フロンティア』内の特集『道修町×大阪製薬』の本稿では、25年11月で35年超に及ぶ「製薬アナリスト」稼業を終えた名物アナリスト、酒井文義氏(UBS証券)に、道修町発の大手製薬会社(武田薬品工業、小野薬品工業、田辺ファーマ、塩野義製薬、住友ファーマ、旧藤沢薬品工業〈現アステラス製薬〉など)の今昔について語ってもらった。(聞き手/ダイヤモンド編集部 土本匡孝)
*取材は25年11月末

社長前夜の塩野義・手代木氏
他社からの呼称は「スーパーマン」

――アナリストとして製薬業界を見始めた1989年ごろというと、製薬業界で合従連衡が始まる前ですね。道修町には数々の製薬会社が本社を構えていました。

 僕が見始めたころの道修町には、当時日本の二大ブランドの一つと呼ばれた武田薬品工業を筆頭に群雄割拠の状況でした。老舗の田辺製薬(ダイヤモンド編集部注:後に三菱ウェルファーマと合併して田辺三菱製薬、その後名称変更して田辺ファーマ)もいました。まだ藤沢薬品工業(同:後に山之内製薬と合併してアステラス製薬、本社は東京)も、大日本製薬(同:後に住友製薬と合併して大日本住友製薬、その後名称変更して住友ファーマ)もいましたね。

――武田薬品工業、田辺製薬と共に「道修町の御三家」と呼ばれた塩野義製薬もいましたね。

 90年代の会見には、手代木功さん(2008年~社長、現会長兼社長CEO〈最高経営責任者〉)がナンバー3か4くらいで来ていましたね。当時の社長、塩野元三さん(1999~2008年社長)は根っからの営業マン。最初のあいさつだけして、「今日はその筋の専門家を全員連れてきましたので」とか言う。そういうときに僕が「塩野社長に直接聞きたいんですけど」って質問すると、「うん?」っていう感じで答えてはくれましたけどね。

――当時の手代木さんには、将来経営トップになりそうな雰囲気があったのでしょうか。

 そのうち「スーパーマン」と呼ばれだしたんですよ。何でもかんでも自分で受け答えできるから。営業もできるし、開発の知識も豊富だし。他社の人たちがそう呼んでいましたね。

依然、登記上の本社・本店は大阪・道修町に置くものの、2000年代以降に小野薬品工業(本社は道修町から約1キロ南)、住友ファーマ(旧大日本住友製薬、東京と大阪の両本社制)、田辺ファーマ(旧田辺三菱製薬、同)、武田薬品工業(東京にグローバル本社、米国に執行役員クラスの多くが在中)が本社機能の一部または全部をよそへ移した。“最後の大手″であった塩野義製薬も25年秋、JR大阪駅前に本社を移した。道修町とは何なのか。改めて考えてみる良いタイミングだろう。

次ページから道修町発の製薬会社、歴代社長、医薬品について、超ベテラン製薬アナリストの目線から実像を浮かび上がらせる。インタビューでは当時の在阪大手3社が絡んだ「幻の合併秘話」も飛び出した。