製薬フロンティアPhoto:H.Kondo/REAL

江戸時代から続く大阪の薬のまち「道修町(どしょうまち)」。2025年秋に塩野義製薬がJR大阪駅前に本社を移転し、大手製薬による“道修町離れ″が一段と進んだ。連載『製薬フロンティア』内の特集『道修町×大阪製薬』の本稿では、塩野義の創業家も設立に関わった大日本住友製薬(現住友ファーマ)をピックアップする。道修町が本社だった大日本製薬と住友製薬が合併して3年後の08年、当時新社長の多田正世氏が掲げた目標は大きかった。いまだ果たせず、むしろ遠ざかっている。(ダイヤモンド編集部 土本匡孝)

大日本製薬の設立発起人に名を連ねる
武田、田辺、塩野、小野などの面々

 住友化学の子会社・住友ファーマは、大日本住友製薬が2022年に商号変更した企業だ。その大日本住友製薬のルーツの1社に、大日本製薬という会社があった。

 大日本製薬は大阪・道修町に本社を置いていた。1897(明治30)年設立で、当時の社名は大阪製薬。優良医薬品の国産化を目指し、道修町の有力薬業家らが発起人となって設立された。その発起人の中には武田長兵衛(武田薬品工業の創業家)、田辺五兵衛(田辺製薬の創業家)、塩野義三郎(塩野義製薬の創業家)、小野市兵衛(小野薬品工業の創業家)などが名を連ねていた。

 道修町の競合製薬会社が寄り添って、新たな競合製薬会社を立ち上げたわけだが、その歴史を知る者はもはや少ない。業界人からは「マルピー」の通称名で呼ばれた大日本製薬は05年、財閥系の住友製薬と合併し、大日本住友製薬として生き残る道を選んだ。

 その後のピークは、大日本住友製薬時代の22年3月期で売上高5600億円。以後は低迷期に突入し、住友ファーマ時代になってパテントクリフ(大型製品の特許切れによる業績悪化)で2期連続の最終赤字(23年3月期純損失745億円、24年同3149億円)に陥った。早期退職者募集(604人が応募)やアジア事業売却などを断行したことは記憶に新しい。

 以下は、大日本住友製薬が誕生して3年後の08年、新社長に就任した多田正世氏(08~18年社長)を紹介した記事だ。今振り返ると多田氏は大風呂敷を広げていたわけだが、根拠がなかったわけではない。合併で誕生した新会社(大日本住友製薬)は売上高で業界5位前後に浮上し、その後大型製品となる統合失調症治療薬「ラツーダ」(一般名はルラシドン)の上市も控えていた。

 右肩上がりの当時の大日本住友製薬と、必死に反転攻勢を図る現在の住友ファーマを比較すると、製薬会社の経営の難しさに思いを巡らさずにはいられないだろう。

コミュニケーションを
重視する国際派

「週刊ダイヤモンド」2008年08月23日号「週刊ダイヤモンド」2008年08月23日号より

「君に話があるんだが、守秘契約にサインしてもらわんと、言われへんねん」――。

 今年(2008年)6月、大日本住友製薬社長に就任した多田正世が製薬業界に入ったきっかけは、04年秋、旧住友製薬社長の岡本康男(現大日本住友製薬相談役)が掛けた、この一言だった。