ヨーロッパ進出

 一時はドル箱に思えた政府関係の仕事だったが、1970年代に一部の報道機関によりマッキンゼーの行政機関との契約が問題視されたことをきっかけに、マッキンゼーは政府関係の仕事から手を引くようになった。

 一方、1950年代なかばからマーヴィン・バウワーはその目を海外、特にヨーロッパへと向けはじめていた。当時のヨーロッパ企業は第二次世界大戦により打撃を受け、荒廃から立ち直る途上にあった。また比較的無傷だったアメリカ企業が次々にヨーロッパに進出し、1948年時点でロンドンに93しかなかったアメリカ企業の支社が1971年には544まで増えていた。経営コンサルティングはヨーロッパでも確実に求められていたのだ。

 マッキンゼー社内では、1959年にロンドン・オフィスの開設が決定された。イギリスではケンブリッジ大学かオックスフォード大学を優等で卒業した人材が採用された。その国で最高の学歴を持つ人間を積極的に採用するという方針は、その後も繰り広げられるマッキンゼーの海外進出の基本的な人材獲得の手法となった。

 マッキンゼーの進出は、ヨーロッパのプライドを傷つけ一部で批判を巻き起こしもしたが、ロンドンでの成功を皮切りに、1961年にジュネーヴ、1963年にパリ、1964年にアムステルダムとデュッセルドルフにオフィスを開設し、さながら侵略軍のようにビジネスを拡大していった。

 スイスでガイギー、ネスレ、サンド、ウニオンバンクを、フランスでクレディ・リヨネ、エールフランス、ルノー、ペネシーといった一流企業を次々に顧客リストに加えていったように、進出する先々でマッキンゼーは1969年までに収入の半分以上がアメリカ国外からもたらされるようになっていた。

 ヨーロッパを手中に収めたマッキンゼーだったが、その後1970年代に突如として訪れることになる高度成長の終焉、アメリカ経済の低迷には丸腰の状態にあった。