「13歳のとき、宗教の先生のフリーグラー牧師が、何によって憶えられたいかねと聞いた。誰も答えられなかった。すると、今答えられると思って聞いたわけではない。でも50になっても答えられなければ、人生を無駄に過ごしたことになるよ、と言った」(『ドラッカー 時代を超える言葉──洞察力を鍛える160の英知』)
ドラッカーのコンサルティングが、質問によって行われていたことはよく知られているとおり。
ゲーテにもダンテにも先生はいた。しかし、2人とも、彼らの先生が思いもつかないほどの巨人に成長した。先生方の持ついかなるスペック(仕様)をも超えた。
最高の教育者はスペックを持たない。理想像は持っていても、その理想像に生徒を押し込めようとはしない。自らの理想像をも超えて成長してくれることこそ、教師冥利に尽きる。同じことは、コンサルタントについてもいえる。
だから、最高の教師とコンサルタントは、質問によって生徒とクライアントを刺激する。
その質問魔のドラッカーが究極の質問と位置づけていたのが、このホワット・ツー・ビー・リメンバード・フォー「何によって憶えられたいか?」あるいは「何をもって憶えられたいか?」だった。
経済学の巨人シュンペーターが、ウィーン時代の年長の友人、ドラッカーの父アドルフ・ドラッカーに聞かれての最晩年の答えが、「何人か一流の経済学者を育てた教師として憶えられたい」だった。
同じように、ドラッカーのかかりつけの歯科医が、突然ドラッカーに聞かれて、ちょっとむっとしての答えが「変死したドラッカーさんを検死した解剖医が、『この人は一流の歯医者にかかっていた』と言ってくれることだ」だった。
もちろん日本人の場合、10人に1人は、どう憶えられるかにかかわりなく、信ずるところに向かうと答える。最高の心掛けであり、心意気である。しかし、ドラッカーは、憶えられるという色気を是とする。これならば、10人が10人とも望むことができる。
「今日でも私は、この問い、つまり何によって憶えられたいかを自らに問いかけている。これは、自己刷新を促す問いである。自分自身を今日の自分とは若干違う人間として見るよう仕向けてくれる問いである」(『ドラッカー 時代を超える言葉』)