「電撃戦」の生みの親

 この新しい戦闘スタイルは誰がどのように生み出したのであろうか。

「電撃戦」を考案し、実践したのは、ドイツ陸軍のハンス・グデーリアンである。彼は敗戦後、陸軍に残ることはできたものの、交通兵監部に転属されていた。あまり中枢とは思えない部署だが、ここで彼は当時の新兵器である戦車や自動車などを眼前にして、こう考えた。

 将来起こることが予想される戦争が、第1次世界大戦の独仏国境で行われた塹壕戦を典型とするような陣地戦になる可能性は非常に少ない。限られた戦力のドイツ軍は、迅速に展開する機動戦によるしかない。その際に威力を発揮するのは、戦車や装甲を施した自動車による部隊であり、歩兵や騎兵に替わって、それらが戦闘部隊の主力になる必要がある。

 グデーリアンがこうした認識に至ったのは、1929年のことであり、この分野で先行していたイギリスの専門家の著書に多く学んだ。

 伍長として第1次世界大戦に従軍したヒトラーが、政権の座に就くのは33年のことだ。この年に開かれた最新兵器の展示会でグデーリアンは講演し、オートバイ兵、対戦車兵、戦車兵によるデモンストレーションを行い、ヒトラーの強い関心を喚起した。

 翌34年、ドイツ陸軍に戦車大隊が編成される。その翌年の再軍備宣言により、グデーリアンは新設された装甲師団の師団長に就く。

 そして、39年9月のポーランド侵攻で、騎兵主体の前近代的なポーランド軍を蹴散らし、その威力のほどを世界に示した。

 翌40年5月10日には、ベネルクス3国への侵攻により、西部戦線が開かれる。ルクセンブルクは抵抗せず、ドイツ軍装甲部隊が進撃するのを見守るのみだった。オランダは15日に、ベルギーは28日にそれぞれ降伏した。

 ドイツ軍がフランス国境を破るのは6月5日のことである。それからわずか6週間ほどで、欧州最強、つまり世界最強の陸軍国と謳われたフランスは、ドイツの猛攻の前に矛を収めることとなった。

西部戦線と侵攻・反撃計画