歴史的に、世界に挑むチャレンジ精神は本来、日本人が持っていた気質。しかし今の時代、日本のお家芸“ものづくり”だけでは新興国に負けるのは火を見るよりも明らかだ。成長へと反転攻勢に転じるために必要なものは何か――。それは革新的なイノベーションを起こすための「世界標準の思考」に他ならない。気鋭の起業家であり、技術者である筆者が、日本が再び世界をリードしていく道はなにかを説く。
“大学生のオタク”が
ベンチャー起業家に
1971年ロサンゼルス生まれの日系二世。16歳でカリフォルニア大学リバーサイド校に合格。同大学ロサンゼルス校(UCLA)医学部卒業。高校時代に起業し、指紋認証など生体認証暗号システムの開発で成功。2004年に会社をマイクロソフトに売却してからは日本に拠点を移し、ベンチャー支援のインテカーを設立。有望なスタートアップ企業を育成している。12年には、総理大臣直属の国家戦略会議で委員を拝命し、国会事故調査委員会では最高技術責任者を務めた。また13年12月より内閣府本府参与に任命されている。世界経済フォーラム(ダボス会議)「ヤング・グローバル・リーダーズ2011」選出。著書に『ザ・チーム』(日経BP社)、『その考え方は、「世界標準」ですか?』(大和書房)。Photo:DOL
私は米国生まれ、米国育ちの日系2世です。大学は飛び級を果たして両親の望む医学部を卒業しましたが、結局、医者になったその日の夕方に病院を辞めました。ほかにやりたいことがあったからです。それはコンピュータビジネス。得意の数学とプログラミングの知識、日本語のスキルを生かし、大学時代に友人たちとソフトウェア会社、「I/Oソフトウェア」を設立しました。
1つの転機となったのは、大学在学中の1980年代前半、NEC(日本電気)から仕事の依頼が舞い込んできたことです。なぜ日本の大企業から、はるばる海を越えて声がかかったのか。それは、当時業界では不可能と言われていた、IBMのPC画面に漢字を含めた日本語を表記する技術を私たちが編み出したことを知ったからです。依頼内容は、パソコン通信の人気シェアウェアソフトだったプロコム・プラスのメニューとコマンドを翻訳し、NECのパソコン「9801」用のソフトにしてほしいというものでした。
非常に困難な仕事でしたが、時間と費用を大幅に超過して、ようやく完成。私たちはNECの信用と継続的な仕事を勝ち取ることができました。でも今振り返ると、よく10代の米国人に仕事を任せてくれたものだと頭が下がる思いです。なにしろ、私たちの実態はクライアントには知られないようにしていましたが、大学の寮を拠点とした“大学生のオタク集団”に過ぎなかったのですから。
仕事は順調でしたが、ある日突然、大ピンチが! NECの幹部からラスベガスで開催されている展示会の視察ついでに会社を訪問したいという連絡が入ったのです。「これは大変だ!」ということで、急きょ私たちはビルの一室を借り、会社を登記し、それらしい設備を整えました。まさかそれができて5日目のオフィスだとは、NECご一行も思わなかったでしょう。
これが1991年のこと。なんともバタバタな幕開けでしたが、NECのおかげで、私たちは本格的なベンチャービジネスの道を歩み始めることができたのです。
こんなふうだった1980年代は、日本経済がとても元気だった時代。世界中にメイド・イン・ジャパンの製品が溢れ、米国では“ジャパンバッシング(日本叩き)”が起きるくらい、技術立国日本は世界に勢力を広げていました。