吉田調書の公開プロセス自体が
歴史上の大きな「汚点」になり得る

 まず必要なのは、今回の調書公開は、通常ありえない特例的なプロセスの中でなされたものであり、いわば「超法規的措置」だという事実を明確に意識すべきことだ。

 本来、吉田調書とは、非公開が前提で得られた調書だ。調書の冒頭にて「記録が公になること」を承諾しているものの、それは事故検証の過程でとられたものである。当然、そこにおける利用という限定を超えて、このように当人の意図せざるところで漏洩することを前提としていない。それがこの事故調での検証作業であり、その情報収集プロセスを成立させている。

 すでに報じられているが、政府事故調の内部に留められる調書が国会事故調に開示される際、吉田氏本人が上申書を提出している。そこでは「国会事故調に開示することについては異議はございません」としつつも、「本件資料が、国会事故調から第三者に向けて公表されることは望みません」「第三者に漏えいすることがないように、国会事故調において厳格な管理をするとともに、国会事故調による調査終了後は、国会事故調から政府事故調へ資料を返却していただきたい」と一般公開を強く拒絶していた。

 しかし、朝日新聞の5月の吉田調書スクープは、その発言の一部を切り取り歪曲して伝え、それが一人歩きし、現在に至っている。吉田氏の上申書提出は、そのような事態を事前に懸念してのことである。

 公文書にもかかわらず、非公開が前提となる文書が存在すること自体に、不満を抱く人がいることも確かだろう。また、政府が情報を統制する志向を常に持っていることに、不安があるのも理解できる。時代状況を見ても、様々な分野で「市民への情報公開」が善とされる大きな価値観が存在するなかでは、そうした議論が出てくるのは当然だ。

 しかし、そのような不満・不安をもとに、今回のようなプロセスによって、非公開が前提の文書をなし崩し的に公開してしまったことは、歴史上の大きな「汚点」となり得る。なぜなら、結果的にではあるが、政府が設置した公式の事故検証の場である事故調において「政府が情報提供者との間に定めた契約を破った」という前例をつくったからだ。ましてや、今回は、吉田氏が亡くなり「死人に口なし」で反論を許されない状態のうえで「情報公開」が進んだ。

 これは、今後、社会を揺るがすような事故があって事故調がつくられた際、「事故検証」に協力しない人、あるいは、協力しても口を噤む人が出てくる可能性を高める。

 前回述べた通り、事故検証とは誰かの責任追及をするためではなく、事実関係を明確にし、未来への教訓を残すことにある。これまでも様々な事故に関する事故調がつくられ、検証作業が行われてきた。そこでは、「責任追及をしない代わりに、これまで出てこなかった事実も含めて証言してもらう」という前提が設けられることも多かった。

 その点で、今回のケースについて「非公開が前提の証言を(政府の圧力に屈せず!)そのまま公開すれば、私たちは真実に近づき、公正な社会を実現できる」と考えるのは、浅薄な発想と言わざるをえない。同様の事態が発生した場合、集めるべき情報の収集を困難にするからだ。事故調に協力しても、それが責任追及の道具や、スキャンダル消費のネタとして一人歩きするのならば、そもそも調査自体が成立しなくなり、社会の真実や公正の確保は遠のく。

 繰り返しになるが、「未来への教訓を残すため」との約束が破られる前例をつくってしまったことは大きな汚点だ。「市民への情報公開は進められるべき」という価値観を持つことやその実現は重要だが、必ずしもそれは、無条件に何に対してでも進められるべきことではない。いま重要なのは、私たちが教訓を得られる情報をいかに獲得できるのか、である。

 また吉田調書のスクープ自体にも、様々な「非公開情報」が隠れていることは意識されるべきである。例えば、そもそも誰が朝日新聞にリークしたのか、という問題がその一つだ。

 報道順を言えば、NHK、読売、共同、毎日だが、その裏では激しい調書獲得競争が行われていた。吉田調書のコピーの入手について、朝日・産経の後を追って取材した記者たちからは「相当、苦労した」と聞いている。吉田調書は、検証が終わってからは厳重に管理され、事故調関係者も含めて、基本的には外部への持ち出しができない文書である。手元に持つ人がいるとしても、一部の政府関係者だけだ、と。

 そうであるとすれば、朝日・産経やその他の報道機関は、単に「記者が取材をしていたら、偶然、文書を見つけてしまった」というシナリオではなく、政府関係者なのか、あるいは、そこから入手した第三者等から調書を入手している可能性は高い。情報提供する側も、わざわざそうすることには何らかの「思い」があるのかもしれない。しかし、そうした極めて重要な背景情報は、後追い報道をした他メディアも含めて、記事には書かれていない。

 もちろん、これは「情報源の秘匿」の問題である。これが守られなければ情報提供できなくなってしまうという意味では、先の話と同様だ。ただ、そうした背景事情を深める余地はまだあるのかもしれない。

 いずれにせよ、必要な情報公開はなされるべきだ。しかし、情報公開を絶対視するあまりに、本来得られなければならない情報を集めることに支障をきたすのであれば、その点は再考すべきだ。

 当初、政府は「吉田調書をはじめとする政府事故調の調書を原則的に非公開とすべき」とした。その判断には一定の正当性があった。もし、それでも非公開情報の公開をすべきだとするならば、現在ありがちな議論のように、ただ「国は自分たちの都合のために隠蔽している」「とにかくすべての情報を開示せよ」という話を続けるのではなく、事故検証はじめ、必要な情報を可能な限り社会で共有できる制度がいかにあり得るか考えるべきだ。

 例えば、アメリカ等での公文書の取り扱いのように、「当面は非公開とした公文書も、一定期間を置いて情報公開して、社会のために役立てることができるようにする」制度をつくる必要があるだろう。いつまでも「市民への情報公開は無条件に礼賛されるべきで、それに反する議論は全て批判すべき」というようなレベルの話をしていても仕方ない。

 日本はまだ、「市民への情報公開」を進める余地がある。今回を機に、社会に必要な情報をいかに集め、共有すべきか考えなおさなければならない。