ただ、表現の自由といえども、100%認められるわけではないことも事実です。わいせつな写真や文章を大っぴらにはできないでしょうし、報道などが他人のプライバシーや名誉にかかわることであれば、その人の人権との調整も考えなくてはなりません。国民からしても「表現の自由」をただ主張するばかりでは、これを制限しようとする「権力のたくらみ」から表現の自由を守ることはできません。
ですから、「表現の自由」を考える際には、まず、「表現の自由」がいかに大切な価値であるかを確認し、そのあとに、それが制限される場合があるとしたら、どんな場合なのか、具体的に起きたトラブルとの関係で学ぶのです。人権関係の学習が判例中心になる理由がここにあります。そうした限界以外には表現の自由は侵すことができないのですから、その限界を知ることは、表現の自由を守ることにもつながるのです。
生存権を守ることは公務員に与えられた使命
次の話題は、憲法25条が定める生存権です。この生存権を支える仕組みとして、生活保護の制度があります。
○憲法
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
もし、憲法の生存権を「お上のお慈悲的な福祉制度」だなんて理解している公務員がいたらどうでしょう。そこまでは思わなくとも「自治体あっての生活保護だ」などと思っていたらどうでしょう。「財政が厳しいので生活保護の申請の受理を控えよう」なんて考えてしまうかもしれません。実際に「給付の適正化」の名の下に正式な申請を思いとどまらせる「窓口指導」が各地で行われ、問題となりました。
生活保護にかかる費用の4分の1は自治体が負担しなくてはなりません。もしかしたら、窓口指導をした職員も生活保護の対象ではない市民も、自治体の財政にプラスになるからと「それほど悪いことをした」と思わないかもしれません。しかし、生存権を守ることは公務員に与えられた使命です。だとすれば、どんなことをしても必要な保護は行わなければなりません。
もちろん不正な受給は許してはいけません。また、「国が保障している生存権実現のための制度なら、そもそも国が全額負担するべきでは?」という疑問も生じるかもしれません。
しかし、不正受給の問題もどこが負担するかという問題も、別途、解決すべきことで、必要な生活保護を削ることで解決できることでも、解決すべきことでもありません。生活保護を求める人がいる以上、また、生活保護を担当している以上、この使命から逃げることはできないのです。