財政難は生活保護費の引き下げ理由にならない

 官僚や国会議員だって同じです。財政が厳しいことだけを理由に生活保護費を引き下げることは許されません。

 なるほど、憲法25条の生存権の性格についてはいろいろな考え方があります。なかには、憲法25条は、国に対して政治的な責任を負わせたにすぎないと考える説(プログラム規定説)もあります。25条は、国民に最低限度の生活を営めるよう必要な措置を求める権利を与えたのではなく、国に制度整備の心構えを説いたものに過ぎないとする説です。

 最高裁判所はどの説が正しいとはハッキリ述べていませんが、どうやらこの説に近い考え方をしているようです。こうした説では「具体的な生活保護の水準を定めるのは国である」と考えられています。

 しかし、それでも「今は財政が厳しいから生活保護費を少なくしよう」なんて判断を憲法が認めているわけではありません。生活保護の水準は、国民の一般的な生活水準と比較して決まります。「デフレで家賃相場が下がったのでその分をいくらか反映させよう」といったことはあるかもしれませんが、「財政が厳しいから生活できない水準でガマンしてもらおう」などということとは決して許されません。それは指示書としての憲法に反することになるからです。

生活保護をめぐる議論のまやかし

 生存権は「社会権」という種類の権利です。資本主義社会はある意味、弱肉強食の世界ですから、そのままでは、強いものだけが生き残る世の中になってしまいます。こうした事態を防ぐため国が前面に立って、公平や平等を回復しようとするのが社会権の本質です。

「自由を守る」というと、「国民の言論や活動などへの国の干渉を防ぐ」といったイメージが一般的ですが、国民がそれぞれの力を発揮できるように平等なスタート地点に立てるようにすることもまた「自由」を回復することなのです。そのため、憲法の用語では、社会権のことを「国による自由」と呼んでいます。

 もちろん、社会権は国の在り方と結びつきやすい自由です。日本は「不幸にして働けなくなった人などを見殺しにしない」と憲法25条で決めたのです。まず、これは確認しておかなければなりません。

 ただ、そこに「公平や平等」がなければならないことも事実です。つまり、生活保護制度が成り立つためには、国民が納得する制度でなければならないのです。

 ですから、「一所懸命働く人がもらえる給料の額より生活保護で支給される額の方が多いというのは問題だ」という議論はなるほど理解できます。ところが、ここにもマヤカシがあります。

 この場合に比べられている賃金は、最低限支払わなければならないとされる「最低賃金」というものなのですが、「そもそも、その最低賃金が低すぎて生活できない額となっているのではないか」と疑う目を持つ必要があります。
生存権などの社会権を考えることは、憲法が社会の公平や公正をどのように実現しようとしているかひとりの生活者として考えることでもあるのです。