批判は自由だ。でも観もせずに批判をするな

 ここで念を押すが、言論や表現の自由は最大限に認めねばならないとするならば、この映画を観てほしくないと主張する自由も認められねばならないと僕は思う。だから上映中止運動をすることも自由。ただし条件がある。

 抗議や批判の前に観ることだ。

 それは権利の主張や自由の保障以前に、人の嗜みとしては当然のこと。でも『靖国 YASUKUNI』や『ザ・コーブ』、今回の『アンブロークン』、そして僕の映画『A』のときも、批判する人のほとんどは事前に観ていない。事前に観ることが不可能ならば、公開が始まってから自分の眼で確かめて、そのうえで抗議や批判をるべきだ。べきだじゃなくて当たり前だ。友人が「駅前に開店したラーメン屋まずすぎるぜ」と言ったとする。
「絶対行くなよ。後悔するぜ」
「そんなにまずいのか」
「いや。俺は食べてない」
「誰が食べたんだよ」
「まだ開店していないから誰も食べていない」
想像してほしい。この後にあなたは何と言うだろう。

 産経WEBには、『「捕虜たちが焼かれたり、人体実験で殺され、(日本の)古来からの人食いの風習で生きたまま食われた」などと捏造(ねつぞう)されたストーリー』『そのまま映像化されてはたまったものではない』と記述されているが、日本兵の食人行為は決して捏造ではない。現実にあった。

 1945年、小笠原諸島父島において日本の陸海軍高級幹部が、米軍航空部隊の搭乗員である捕虜八名を処刑して、そのうち五名の人肉を嗜食している。

 大戦末期のニューギニアやビルマなど南方戦線では、飢餓状態に陥った兵士たちが、戦死した友軍や敵軍の将兵の人肉を食した事例があったことは、すでに数多くの証言や文献で明らかになっている。小説や映画でもこのテーマは、大岡昇平の『野火』や武田泰淳の『ひかりごけ』、原一男の『ゆきゆきて、神軍』やこの夏に公開される塚本晋也の『野火』など、いくらでも挙げることができる。

 でも父島のこの事件は、それらの事例とは背景がまったく違う。舞台となった父島では地上戦は展開されていないし、食糧事情も悪化していなかった。少なくとも生きるか死ぬかの選択で起きた事件ではない。陸海軍幹部が酒宴の場で、捕虜の肉を肴にしようと思いついて実践したのだ。秦郁彦の『昭和史の謎を追う』にも、このとき捕虜となりかけたブッシュ(シニア)元大統領のエピソードにからめながら、この事件への言及がなされている。

 戦後にBC級戦犯を裁いたグアム軍事法廷で、これに関与した海軍と陸軍の将校たちは事実をほぼ認め、捕虜を食した理由は戦意高揚のためと証言している。将校たちは捕虜となった米兵を処刑して(この段階ですでに国際法違反だが)、肝臓などを摘出して酒の席で食べ、陸軍中将は「これは美味い。お代りだ」と喜んだという。ただしグアム軍事法廷は、人肉食を直接断罪したわけではなく、あくまで捕虜殺害と死体損壊の容疑で審理を行っている。