安倍晋三総理が「戦後70年談話」を出す時期が、いよいよ明日に迫った。そこで今振り返っておきたいのが、戦後50年に当たる1995年に出された「村山談話」だ。日本の歴史認識を対外的に明らかにしたという点において、重要な意味を持つ。同談話の原案を書いた元外務官僚・谷野作太郎氏が、その誕生秘話と意義を語る。(インタビュー・構成/『週刊ダイヤモンド』論説委員 原 英次郎)
村山総理から「一文書いてくれ」と
大きな修正はなかったと記憶している
――谷野さんは1995年当時、内閣外政審議室長の要職にあり、村山富市総理の出された「村山談話」の原案をお書きになりましたね。
戦後50年という節目の年を迎えて、日本では、いろいろなところで、この機会に戦前、戦後の日本の歩みを総括し、将来に向けて日本の目指すところを国内外に発表したいという動きがありました。
たとえば、5月、東京の武道館での大会で出された「アジア共生・東京宣言」。これは、ひと言で言えば、「あの戦争は、欧米からのアジア解放のための戦いだった」、日本については「自立自衛を求めて止むに止まれず欧米列強に戦いを挑んだ壮挙であった」というものです。あの無謀な戦争の結果、あるいは朝鮮半島の植民地支配の結果、日本が中国や朝鮮など近隣のアジア諸国に物心両面で大きな苦痛を与えたということに全く目をつぶったものでした。
1960年東京大学法学部卒、外務省入省。駐インド、駐中国大使などを経て2001年退官。河野談話、村山談話、慰安婦問題については「アジア女性基金」の立ち上げで、大きな役割を果たす。日中友好会館顧問
政治の面では、国会で「決議」を出そうということで、政党間でいろいろとせめぎ合いがありましたが、その結果6月に「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」が、衆議院で採択されました。しかし、この短い決議とても、衆議院では、少なからぬ議員方が反対、棄権され、全会一致の決議とはならず、参議院では決議を出すこと自体が見送られました。
そんな中、中曽根康弘元総理が私に「歴史認識」というテーマは、国会決議になじまない。これを与野党の折衝の場にさらすと“これを入れろ”“あっちを削れ”など、仕上がりは妥協の産物となってろくな内容にならない。書くならば、政府がしっかりした筋の通ったものを書くべし」とおっしゃいました。事実、衆議院の決議は妥協の産物で、中途半端なものになったわけで、「さすが」と思いましたね。
――そこで、村山総理から谷野さんに、一文書いてくれ、と。
そうです。7月に入ってからのことだったと思います。私は、すでに内閣参事官室で内々作業が始まっているのは承知していましたので、若干躊躇したのですが、総理から直々のご指示ゆえ、私なりに考えた一文をしたためました。その間、内々に二、三の学者の方にも相談しましたが、大きな修正はなかったように記憶します。