反対論者の立場から
筆者は、日本がいわゆる国家ファンド的な資産運用を行うことに対して反対だ。日本版国家ファンドは、おそらく、「金融版の公共事業利権」となり、金融業者の食い物にされて、その資産運用は一か八かのリスクを抱えて勝ったり負けたりを漂う危ういものになるだろう。
素晴らしい運用ノウハウや、リスクに比して儲けが大きい有効な投資機会は、仮に存在したとしても、それを持っている者、知っている者の言わばレント(地代)の源泉であって、運用を委託する側が継続的に収益を得る源泉となるようなものではない。金融の世界では、他人の知識や情報に過剰に期待する者は、ほぼ必然的にカモになる。ただ、結果には運が絡むので、時々幸運に遭遇したカモは、そのことを忘れてしまうのだ。
しかし、当たり前だが、世の中は全て筆者の意見の通りに動くわけではない。日本版国家ファンドが将来実現に向かうことは、あり得ない話ではない。その場合、日本版国家ファンドに反対だからといって、無関心を決め込むことは一国民として建設的でない。「少しでも、よりマシ」なものを作ることを考えるべきだろう。また、日本版国家ファンドについて何が許せて、何は許せないか、ということを事前に考えておくと、反対論・賛成論何れの人にとっても役に立つだろう。
そんな訳で、今回は、ありもしない国家ファンドについて、こんな形なら少しは許せる面がある、というようなものを「想像」してみたい。
もちろん、それでも現在の私が日本版国家ファンド設立に反対であることには、何ら変わりはない。以下の想像が創造につながったら、それは悪夢だと申し上げておく。