米経済学に嫌気がさしてフランスに戻ったピケティを
それでもクルーグマンやスティグリッツが絶賛するワケ

佐和 フランスに目を転じると、『21世紀の資本』(みすず書房、2014年)という著作が大ベストセラーとなったトマ・ピケティ(1971-)は、フランス社会党のブレーンであり、自分の政治的なポジションを明確にして経済学研究をしています。

『21世紀の資本』は壮大な古典だが、ひとつの学派を形成する理論とは趣が異なる、と佐和さん

 彼の経歴はご存じでしょうね。16才でバカロレア(高等教育機関に入学するための国家試験)に合格した秀才です。合格者は自分の好きな大学の好きな学部に原則として入学できるのですが、成績優秀者の多くは、準備学級で1〜2年専門基礎を学んだ上で、エリート養成校のグランゼコールに進学します。ピケティは準備学級で数学を専攻し、その後、経済学に関心が移り、文系の最高峰エコール・ノルマル(・シュペリウール)に進学したのです。

 その後、パリ社会科学高等研究院とロンドン・スクール・オブ・エコノミクス&ポリティカル・サイエンスの共同学位(博士号)を取得したのです。もともと数学が得意だったこともあり、格差問題を数学的に分析したピケッティの博士論文はアメリカで絶賛され、22才で米MIT(マサチューセッツ工科大学)の助教授に採用されました。経済学の大学院生たちにとって憧れの的というべき職に就いたのです。しかし、ピケティはMITの助教授を2年で辞してフランスに帰ってしまう。数学の僕と化したアメリカ経済学に飽きたらなさを感じたからと、著書の中に書いてあります。

坪井 ピケティの手法は新古典派ミクロ的でマルクス経済学ではありませんが、数学マニアの経済学に飽きたのでしょうか。

佐和 彼はフランスに戻って、次の2つのことを成し遂げました。ひとつはグランゼコールの中に、経済学院を創立したことです。もうひとつが『21世紀の資本』という大著の執筆です。15年間かけて、英独仏米4ヵ国の過去200年にわたる税務統計から、所得と資産の不平等度の推移を示す歴史統計を作り、それに基づき1980年代後半以降の格差拡大を実証して見せたのです。理論面でみれば、格差拡大の主たる原因を「r>g(資本収益率>経済成長率)」というシンプルな不等式に求めています。そして、これ以上の格差拡大に歯止めをかけるためには、国際的に均一の累進資産課税をやれといった…(笑)。

坪井 実現できそうもないようなことですよね(笑)。

佐和 そうですね。そういう点では『21世紀の資本』は壮大な古典というべきであり、文学や歴史書に近いのではないでしょうか。ですから、かつてケインズ『一般理論』がケインズ経済学を、マルクス『資本論』がマルクス経済学をといった具合に、「学派」を作ったのと比べると、ピケティ経済学はできそうにありません。それでも、クルーグマンやスティグリッツはピケティを褒めそやすのには、2つ理由があると思います。

 ひとつは、両者が格差拡大に批判的なピケティの思想に共鳴していること。アメリカでは上位1%の富裕層に分配される所得と資産が増え続けている現状に抗議して、2011年に“We are the 99%”をスローガンとする「ウォール街を占拠せよ」デモが起こりましたよね。クルーグマンやスティグリッツはこのデモを支援していました。もうひとつは、バルザックの『ゴリオ爺さん』(1835年)を引用するなどの博覧強記ぶりを見せつけられたことへの羨望です。ピケティの哲学や歴史といった人文知の深さは、アメリカの経済学者に対し一方ならぬショックを与えたのだと推察します。

坪井 佐和先生が最近よくおっしゃっている「人文知」の深さですね。佐和先生は最近、人社系学部の改組・廃止を求める文部科学省とバトルを繰り広げられておられます。人文知とは何か、そしてそれを身につける教育の在り方について、大学教育に携わっておられる立場から、ぜひ詳しく聞かせてください。(後編は9/18公開予定です)