10月30日に日本銀行金融政策決定会合が開催され、金融政策の現状維持が発表されました。しかし、最近、金融政策の変化が感じられます。そもそも日本銀行の金融政策の目的とは何か、から解説していきましょう。

日本が発展途上国だったころからの金融政策

 第2次世界大戦後の国際通貨体制「ブレトンウッズ(Bretton Woods)体制」は1945年から71年まで採用され、日本円は1ドル=¥360として固定されていました。この時の¥360という為替レートの設定には意味がありました。米国が送り込んだヤング調査団(ラルフ・ヤングは連邦準備銀行[FRB]調査統計局次長だった)が日本経済の調査を行い、さらにGHQ経済顧問だったジョゼフ・ドッジ(デトロイト銀行頭取)等も検討を行い、連合国司令部(GHQ)の中では日本円の為替レートは330円が妥当ということになっていました。その後、主として共産主義の拡大防止のために、日本経済を早期に回復・自立させることが大事ということになり、日本の輸出に有利なように30円乗せて円安レベルの360円に決めたのです(円は“丸”だから360度で360円という話もありましたが)。

 この1ドル=¥360は71年まで26年にわたって継続しました。71年8月の「ニクソン・ショック(Nixon Shock)」により、先進国は順次、変動相場制になっていきました。

 固定相場制とは、固定相場の維持を「最優先の政策」とする制度です。つまり、国際収支(当時は主として貿易収支)を均衡させることが重視されていたのです。当時の日本は発展途上国であり、貿易赤字になることを避けなければなりませんでした。日本国内の景気が良くなると輸入が増えることになります。そのとき、貿易収支を均衡に向かわせるため、景気を悪くし輸入を抑制することが必要となり、金利の引上げが行われました。これが、一般的には「国際収支の天井」といわれるもので、英国では「ストップ・アンド・ゴー政策」という政策です。つまり、為替レート(固定相場制)の維持のために金融政策を使っていたのです。

景気対策より円高防止策としての金融政策

 その後、1985年にドル高是正(ドル安誘導)を目的とした「プラザ合意」によって、ドルは、ドル安方向への大幅な水準調整を実現しましたが、今度はドル安の流れが止まらなくなりました。逆に、日本と西ドイツ(当時)では通貨高による不況が深刻化してきました。そのドルの下落に歯止めをかけるために、締結されたのが「ルーブル合意」でした。