何を「本質」ととらえるかは
目的と立場で変わってくる

 このハワイの例のように、下位レベルの細かな事実から特定の要素を抽出して、それらを総合し、より上位の意味(=本質)を創造するプロセスを、暗黙的知り方(tacit knowing)といいます。名詞では暗黙知(tacit knowledge)ですが、こちらは動名詞形です。

 下位から上位へ、一回で到達できるわけではありません。上位の上にまた上位がある。つまり、部分が全体に、その全体がまた部分に、というように、部分と全体が相互補完的に作用していきます。この上下の往還運動が続くところに、暗黙的知り方のダイナミックさがあります。

 ここで大切なのは、「南の島のパラダイス」という認識も、「太平洋の安全保障の需要拠点」という認識も、どちらも正しいということです。前者は観光客としての認識、後者は政治家や歴史学者、軍関係者としての認識です。何を本質ととらえるかはその人の立場と目的によって変わるのです。

知識創造によって発展した人類は
暗黙知と形式知、どちらを重視するか

 こうやって、個々人が獲得した暗黙知と、すでに流布している公共財としての形式知を組み合わせ、総合すると、より高次の知識を手にすることができる。しかも、そのプロセスは一度で終わるわけではなく、連続的させることが可能です。われわれはこのプロセスを「知識創造」と呼んでいます。

 日本における生物物理学の創始者、東京大学名誉教授の和田昭允さんはこう言います。「人間は有史以来、身の回りの神羅万象に接して、さまざまな暗黙知を獲得してきた。それらを万人が使える知、つまり形式知にしてきたことで、人類が生き延びてきた」。知識創造が人類発展の基礎をつくったというわけです。

 ここで問題となるのは、暗黙知と形式知のどちらがより重要かということです。

 西洋の伝統的考え方では形式知に軍配が上がります。聖書にある「はじめに言葉ありき」という記述が象徴的です。言葉とは経験に関係の無い生得のロゴスであり、論理です。この延長上で発展したのが、数学であり幾何学でした。

 ところが論理や言葉ばかりに頼ると、冒頭で見てきたように、現実に根ざす帰納法や仮説生成が機能せず、演繹法一本やりとなってしまいます。これが行き過ぎると、暗黙知の源泉である直接体験が軽視されてしまい、新しい知が生まれなくなり、「理論のみが正しいのだから、理論で説明できない現実は、間違っている」といった考えになってしまいます。

MBAは形式知だけを教えている

 その考え方が経営の世界に入ると、「マネジメントはサイエンスである」という考えに行きつきます。

 その考えで行われているのが今のMBA教育です。形式知としての論理ばかりを教え、それを現実の現象に当てはめるために、物事の分析ばかりを繰り返す。創造性のかけらもない、形式知至上主義に陥ってしまうわけです。

 私自身は、マネジメントはサイエンスでもありアートでもある、と考えています。言うまでもなく、アートは暗黙知に依拠しています。暗黙知という概念を初めて提唱したのが、ハンガリー出身の物理学者にして哲学者のマイケル・ポランニーでした。ポランニーは「われわれは語れる以上のことを知っている」と述べました。これが暗黙知のことです。

 彼は暗黙知のことを英語でパーソナル・ナレッジと呼びました。この訳語は、個人的知識ではなく、全人的知識というほうが正しいでしょう。良質な暗黙知を得るには、本人が物事に深くコミットしなければなりません。傍観者的態度では駄目なのです。身の回り360度に横たわるすべての現象を自分の問題と捉え、考え、「何をすべきか」「何ができるか」と自問自答する。これが、「チームリーダーになったら自問自答すべき問い」の1つめです。

 それが、新たな知の源泉となる。それが、暗黙知なのです。

(構成・文/荻野進介)