先日、私は今までにない特別の思いを持って、歯医者さんへ向かった。インプラントを埋める手術であった。「はい、柴田さん。お口をゆすいで、では今から麻酔のお注射をしますから、ちくっとしますね」と歯科医の先生。
私は努めて肩の力を抜く。だが、気がつけば右手の親指に人差し指のつめをたて、自らの指の痛みを作りながら、注射を待っていた。指の痛みに勝る痛みは感じない。かすかに歯肉に刺さる痛みを感じ、麻酔薬が注入される電動音、それからコツコツ下額骨にあたる針先を感じる感覚だけであった。いつも以上に緊張したが、それ以上何も起こらないまま、私の下唇は感覚を失った。
壁時計の針は11時45分を示していた。時計が12時を示したとき「では今から手術始めますからね」と頭の上から言葉が聞こえた。開けた口、歯肉にメスが入り、歯肉がえぐられ、ドリルで顎の骨に穴が開けられている。しかし、痛みはまったくない。「うまくやってほしい」と祈りながら目を閉じた頭の中の手術映像は進んでいく。「はい、終わりましたよ。口をゆすいでくださいね」と先生。時計は12時25分を示していた。
以前は恐ろしいとはあまり思っていなかった歯科治療だが、今回だけは痛みに恐怖を覚えていた。「抗生物質と痛み止めを出しておきますから、家に帰えられたら飲んでおいてくださいね」の先生の言葉。小さな声で「ありがとうございます」といいながら、私は受付へ向かった。この時代に生まれて本当によかったと心底思う一瞬だった。
歯科手術を受ける1ヵ月前、「麻酔なしで顎の骨に穴を開ければどれだけ痛いのだろうか」と私は考えていた。なぜなら、私の所属する外科医局の同窓会がそのとき開催され、私の指導教官であったO先生の講演を聞いたからであった。「近代医学のあけぼの」というトールヴァルド著の翻訳本をO先生は出版され、講演の中で暗黒時代の医療、そして麻酔の発見、多くの患者の苦悩から生まれた近代医学の歴史を紹介された。
「150年前までの外科は暗黒の時代でした。手術は耐え難い痛みが伴うもの、傷は化膿しなければ治らない。おなかの腹膜を開ければ必ず死ぬ。たかが虫垂炎でもほとんどの方は死亡しました。それが医学の常識でした」と語られるO先生。
「当時の外科医が行えた手術といえば外傷を受けた手足、腫瘍のできた舌、乳房の切断でした。麻酔なしで一気に切り落とし、焼きごてをあてて血を止める。多くの患者は失神してその場で命を落とすか、手術に堪えることができても敗血症で亡くなりました。手術の恐ろしさに耐えかね自殺する人も多くいました」とO先生の話は続く。スライドには当時の手術の様相を示す絵。患者の左手を助手の一人が両手で力いっぱい引っ張り、左右の二人の助手が懸命に患者の体を押さえている。そして、患者の左腕にあてられた“のこぎり”を外科医が引いている。